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「菅元首相を加工」「事故を美談化」「復興五輪プロパガンダ」 賛否吹き荒れる『Fukushima 50』

映画『Fukushima 50』 オリジナル・サウンドトラック

賛否吹き荒れる『Fukushima 50』を観た。本作は門田隆将著のノンフィクション書籍『死の淵を見た男 吉田昌郎福島第一原発』を原作に、福島第一原子力発電所事故を描いた作品。公開前に配信された『キネ旬 Review ~キネマ旬報映画レビュアーによる新作映画20本のレビュー|KINENOTE』ではレビューした3人の評論家が全員星5つ中、星1つとする酷評をしていた。また公開初日には菅直人元首相の40年近い「知人」である中川右介氏の『映画『Fukushima 50』はなぜこんな「事実の加工」をしたのか?(中川 右介) | 現代ビジネス | 講談社(1/5)』という本作を批判する記事が話題を呼び、大きく拡散された。一方で「加工された」などと話題になった菅元首相は自身のブログ『映画『Fukushima50』を見て | 菅直人公式ブログ あたらしい政権で日本再生! Powered by Ameba』内で、本作を「よくできた映画だ、と思いました。」と一定の評価。また『Fukushima 50 - 作品 - Yahoo!映画』での本作の評価は5点満点で4.19点と高評価だ。本作の賛否に関して「ネトウヨが褒めてる」「パヨクが貶している」というステレオタイプな対立軸で見る者も少ないが、自分が複数の著名人や一般ブロガーの評価を読んだ限りでは必ずしも「思想が右寄りだから褒めてる」「思想が左寄りだから貶している」という感じでもない。

 

  • 事故から9年

また本作に関して「まだエンタメ映画として作るのは早いのではないか?」という声がある。一方で「9年という時が過ぎ、多くの人の記憶が薄らぎ始めているからこそ、仮に賛否が割れたとしても作る意義がある」という声もある。おそらく製作陣はインタビュー等を読む限り、後者の考えを持って製作やオファーを引き受けるに至ったのだろう。個人的にも「このタイミングで作る意義はあった」と感じる。そしてその理由には「9年という時が過ぎたことにより、多くの人から記憶が薄れた」ということと同時に、「震災当時、状況が分かっていなかった世代」が年齢的に大人になる時期だからだ。例えばこの春高校を卒業する(した)世代は2001年度生まれ。つまり震災当時は10歳だ。おそらく彼ら彼女らに近い世代、当時義務教育を受けていたような世代の多くにとって、東日本大震災の記憶は「大きな地震があった」「大変なことが起きた」と認識していても、「当時何が起きていたのか?」ということを理解していた人は少ないと思う。「原発が爆発した」という報道も「発電所が爆発して大変」以上の認識はなかった人が多いだろうし、「東日本が壊滅してもおかしくない状況だった」ということも知らずに生活していたと思う。だからそういう若い世代の中には本作が公開されたことで、あの事故について詳しく調べてみようという「キッカケ」にもなる人もいると思う。また若い世代に限らず、「あの日、何が起きていたかよく分かっていなかった」という人たちにとっても、薄れゆく記憶と映画がリンクして「あの時、如何に大変なことが起きていたのか」を理解することができると思う。そのため、このタイミングで作る意義は間違いなくあると感じた。ただ「時間の流れ」は人によって体感時間が異なるので、「日本国民全員が観るべき」というような薦め方をするような作品ではない。それは震災の描写に関しては、かなり力の入った描写になっているからこそ、強くそう感じる。

 

 

ここからは本作を観た感想についてネタバレ込みで書いていく。結論としては「勿体ない映画だな…」と感じた。まず多くの人が指摘するように「事実からミスリードするような描写」があったのは残念だ。大前提として「菅元首相の現地視察」は未だに評価が分かれる部分だ。そのため否定的な意図を込めた演出がなされていたとしても、それ自体に問題はないように思う。また菅元首相には、菅元首相なりの考えがあって「現地視察」を行い、「現地視察」によって菅元首相なりに得られた結果もあったのだと思うが、今回の映画は菅元首相の「現地視察」にポジティブな印象を持っていなかったとされる吉田所長含む現場の目線で描かれていることから、今回のような演出も許容範囲内だと感じた。

一方で「事実からミスリード」するような演出は控えるべきだった。例えば「ベントの遅れが生じるシーン」では東電本部から総理が現地視察するという報告を受け、吉田所長が「総理が来るまでベントを待ってということですか?」という趣旨の質問をすると、東電本部は無言で無線を切る。一方で総理が現地に着くと、吉田所長に対して「ベントをやれ」と要求。その後総理を乗せたヘリコプターが帰る姿を映しながら、ようやくベントが開始される。この映画だけを観ると、まるで菅元首相が現地視察をしたことによってベントが遅れたかのような印象を受ける。しかし「吉田調書」で吉田所長はベントの遅れについて以下のように語る。

 -首相が来たことで、ベントが遅れたか。
 「全くないです。早くできるものは(首相のヘリに汚染蒸気を)かけてしまったっていいじゃないかぐらいですから。私だって、格納容器の圧力を下げたくてしようがないわけですよ。総理が飛んでいようが、炉の安全を考えれば、早くしたいというのが、現場としてはそうです」

調書は語る 吉田所長の証言 (2)苦闘のベント 水素爆発 「早くやれ」一点張り

つまり吉田所長の言葉を信じるなら「ベントが遅れたこと」と「菅元首相の現地視察」の因果関係はないということになる。繰り返しになるが、「菅元首相の現地視察」を否定的に描くことは問題ではないが、因果関係がないとされるエピソードを観客にミスリードさせるような演出は、「真実の物語」「リアリティに拘った」という本作のウリに反する行為だと感じた。

また「海水注入の中止が指示されるシーン」では、事実に基づくフォローが必要だったように思う。今回の映画では本店のフェローが吉田所長に「海水注入を中止しろ」「官邸がグジグジ言ってんだよ」と伝える。この電話によって吉田所長含めた現場は「官邸から海水注入中止の指示が出た」と認識する。実際、『吉田調書』で吉田所長は以下のように語っている。

 「十九時四分に海水を注入した直後、官邸にいる武黒から電話がありまして『官邸ではまだ海水注入は了解していない、と。だから停止しろ』との指示でした」
 「(私は)『できませんよ、そんなこと、注水をやっと開始したばかりじゃないですか』と。はっきり言うと、(武黒氏から)『四の五の言わずに止めろ』と言われた」

調書は語る 吉田所長の証言 (3) 海水注入ためらったか

そのため現場が「官邸から海水注入中止の指示があった」と認識するシーンは、事実に忠実なシーンとなる。一方で現場が「官邸からの中止の指示があった」と認識したのが事実だからといって、本当に「官邸からの中止の指示があったかどうか」は別の問題だ。東京新聞は当時の官邸の様子を以下のように報じている。

 菅直人首相が「海水を注入した場合、再臨界の危険はないのか」と質問し、班目春樹・原子力安全委員長が「可能性はゼロではない」との趣旨の答えをした。
 その場にいた人は「え?」と思ったが、班目氏の答えを聞いて危険があるのかどうかの議論が始まってしまった。
 議論の末、「危険なし」でまとまったが、結論が出る前に、武黒氏が「官邸の了承が得られていない。現場先行が将来の妨げになっては困る」と判断。命令もないのに吉田氏に中止を指示した。

調書は語る 吉田所長の証言 (3) 海水注入ためらったか

また菅元首相と安倍首相による「海水注入中止」をめぐる裁判では、以下のような判決となっている。

菅氏が海水注入について強い口調で問題にしたことが、東電幹部らによる注入中断の決断につながった

菅元首相、安倍首相に敗訴確定 原発事故メルマガ訴訟:朝日新聞デジタル

つまり「官邸からの具体的な中止の指示はなかったが、中止と捉えられても仕方がないような行動はあった」というのが1番真実に近いのではないかと感じる。ただやはり、映画の演出だけでは「官邸が中止の指示を出した」という風に観えてしまう。そのため映画でも官邸内のシーンを描くか、もしくはシーン自体はそのままでも、海外の実話をベースにした伝記映画によくあるエンドクレジット手前の「解説クレジット」のようなモノを作って、ここら辺の事情を説明して欲しかった。

菅元首相絡みのシーンでいえば、東電本店に乗り込んで「撤退はあり得ない」と演説するシーンも賛否が割れているが、あのシーンは実際の映像が残っていないことに加えて、撤退の意思がない現場の人間からすれば「ああいう風に見えた」というのも分かるし、許容範囲内だと感じた。実際、全く同じ人間の同じ言葉や行動であっても「見る者の立場や考え方」によって「見え方」が全く異なるというのはよくある話だ。今回は現場視点の物語だし、こういう演出もナシではないのだろう。

ちなみにSNSでは佐野史郎の演技について、左からは「なんであんな冬月さんのテンションで演じてるんだ!」と貶され、右からは「佐野史郎さん、菅直人をよく演じてくれています!」と褒められている印象がある。しかし佐野史郎本人は以下のようなことをインタビューで語っている。

「あのとき」の首相の現地入りは政治史的に“汚点”とされる。しかし佐野は、それで簡単に片付けて良いのか、という疑問を持ち続ける。「現在もまだ何が本当に正しかったのか分かっていない。自分たちがもしあの立場ならどうしたか。現場を放っておけない気持ちも少し理解できます」

佐野史郎、「あのとき」考えるきっかけになれば…Fukushima50連載〈6〉 : スポーツ報知

ここからは分かるのは、佐野史郎さんは「菅元首相を悪者として演じているつもりはない」ということだ。

 

 

  • 事故を美談化

本作には「事故を美談化するな!」という声もある。「命をかけて日本を守った人たち」を英雄視するのはいいが、「それだけで終わってはいけない」「美談にして、国や東電の責任を有耶無耶にしてはいけない」「どうして命をかけなくてはいけない状況が生まれたかを考えろ!」というものだ。個人的には『福島核災害を「美談」に仕立て上げた映画『Fukushima50』が描かなかったもの | ハーバー・ビジネス・オンライン』の記事に書いてあるように、「吉田所長が部長時代に津波対策を先送りにしていた」部分を上手く物語に練り込ませることができていれば、良かったのになと思う。

 

本作ではエンドクレジット手前の「テロップ」も賛否が割れるポイントになっている。本作はエンドクレジット手前で「2020年7月、復興のための五輪が、日本で開催される。聖火は、福島からスタートする」というテロップが表示される。このテロップによって、本作を「復興五輪プロパガンダ」と批判する者も少なくない。確かに、満開の桜からこのクレジットが表示されていれば、そういう風に見えなくもない。一方でその手前には「原子力 明るい未来のエネルギー」という看板の下を事故後の佐藤浩市が運転する車が通り過ぎるシーンが割と長い尺で取られている。そのため「復興五輪」のテロップは満開の桜や音楽などの演出含めて「皮肉」のようにも見える。ラストのテロップについて本作のプロデューサーである椿宜和さんは以下のように語る。

2020年3月に公開される。だからこそのメッセージであり、肯定的にも否定的にもとれるようになっている

二極化し、変容もみせる『Fukushima 50』への反応。ニュートラルに観ることは不可能なのか(斉藤博昭) - 個人 - Yahoo!ニュース

プロデューサーとしては、あくまでも「観客に任せる」ということなのだろう。ただ前述したようにエンドクレジット手前の「テロップ」には「映画の上映時間内で描ききれなかった情報」や「現在の福島の現状」なども入れて欲しかった。

 

  • 勿体無い映画

本作は全編エモーショナルな感じで進むから、あの日と重ねながら「ずっと泣きっぱなしだった」という人の意見も理解できる。地震津波のシーンはハリウッド対策と比べれば分が悪いが、かなり迫力があったし、実際にこの地震が「どういう自体を巻き起こすか」が分かっているのも加わって、かなり動揺させられた。また「東日本壊滅の危機を救ってくれた人たち」のことが知れたのも良かった。正直原作者のTwitterを覗きに行ったときは、「新型コロナウイルス」のことを「武漢ウイルス」とツイートしていて「あっ…」となり、かなり不安にもなっていたが、実際に観てみると「結構良い映画だったな」と感じた。それだけに上述した理由などから「本当に勿体無い映画になってしまったな…」と残念になる。

 

 

  • 最後に…

www.youtube.com

最後に主演の佐藤浩市さんは本作について「宣伝が難しい」「『是非劇場でご覧ください!』とはいえない映画」という趣旨のことをラジオで話していた。その話を聞いて「ちゃんと色々考えていて、信用できる人なんだろうな」と感じた。ただ公開前はシネコンに行っても、YouTubeを開いても佐藤浩市が「角川文庫がスマホで読み放題だと!?オレが出ている映画の原作も読めるじゃないか!読んでから観るか、観てから読むか、良い悩みだなカドカワ、って褒めすぎか。いや、こういう場なんで言わせてくれ、『すごいな角川文庫』」とメチャクチャコミカルな感じで、本作の宣伝をしていて「宣伝の仕事は大変なんだな…」と思ったりもした。

 

原作本

死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発 (角川文庫)