スポンサーリンク

【佐藤健×大友啓史】『るろうに剣心 最終章 The Final』ネタバレ感想、「薫死亡シーンなし」の是非

るろうに剣心 最終章 The Final

2021年4月23日(金)、『るろうに剣心最終章 The Final』が公開された。

 

  • 原作と同じかそれ以上の轍を踏んだ実写映画版

youtu.be

別記事で本作の原作である『人誅編』が「剣心の物語の終着点として一定の評価を得る一方で、少年漫画らしいスケール感溢れる熱い展開の『京都編』に対して陰鬱な復讐譚の『人誅編』は盛り上がりきらなかったと感じた人も少なくない」という趣旨のことを書いた。

これは端的にいえば「『京都編』が良すぎて『人誅編』が霞んでしまった」ということだが、これと同じことは『京都編』を『京都大火編』『伝説の最期編』の二部作で描き、高い評価を得た実写映画版シリーズでも起こりうる懸念だった。そして残念ながら『The Final』は「面白い作品」であることは大前提に原作と同じ轍どころか、それ以上に「うーん、惜しい」「物足りない」「悪くないけど、『京都編』のが良かった」という作品になってしまっていたように感じた。

 

 

  • 原作での「薫死亡シーン」の意味

まずアクション面に関しては『京都編』は無限刃を発火させながら闘う志々雄真実に剣心たちが総力戦で挑んでいくという構図が藤原竜也の熱演もあり、とにかく派手で見応えがあったが、『人誅編』では剣心に姉を殺されたと怨む雪代縁と剣心の一対一の対決が静かにも痛々しく進む。このアプローチ自体は正解なのだろう。原作では少年漫画としての盛り上がりを重視したのか、海辺が舞台で両者の闘いを剣心の仲間たちが応援していたが、個人的には雪代縁のアジトで2人だけが無言でお互いの剣をぶつけ合う実写映画版の戦闘環境の方が好みだ。

一方で「物足りないな」と思わせたのは、原作から大幅に剣心の精神的葛藤がカットされていた点にある。その最大の理由は雪代縁が神谷道場に襲撃した際に原作であった「薫死亡シーン」がカットされていたからだ。原作の剣心は薫の死体を見て、自身が巴に続き薫という一番大切な人を守れなかったことに失望して『新世紀エヴァンゲリオン』の碇シンジのように「もう疲れた…」と廃人となってしまう。このパートは結構長いのだが、燕から弥彦を助けて欲しいと頼まれて復活。「自身の剣により1人でも多くの人の笑顔と幸せを守るのが人斬り抜刀斎として多くの人を殺めてきた自分が生きる答えだ」と原点に立ち返り、実は死体だと思っていたのは人形で生きていた薫を助けるために雪代縁との闘いに望んでいくという展開になっている。

 

 

  • 「薫死亡シーンなし」の是非

しかし実写映画版では「薫の人形による死亡フェイクシーン」は大友啓史監督曰く「リアリティの問題」から、佐藤健曰く「『京都編』でやったから同じことはできない」という理由で却下されたという。その結果、実写映画版の剣心の精神的葛藤シーンは大幅にカットされ、薫が誘拐された後は特に葛藤もなく救出に向かってしまう。勿論、これは実写映画版での剣心の精神的葛藤は『京都編』で既にやっているからやらなかったという見方もできるが、「剣心そのものではなく、剣心の大切にしているものを奪うことで剣心に苦しみを与える」という志々雄真実とは違う雪代縁ならではの闘い方に剣心があまり動じていないように見えるのが残念だった。

原作では神谷道場襲撃前に語られる巴との過去編もそれを描いた『The Beginning』の公開順的に実写映画版しか観てない人には剣心の過去がイマイチ伝わりにくいことになっているし、シリーズ1作目からある「剣心側の少人数と大多数の敵」という構図の戦闘シーンもややマンネリで、前作まで程のカタルシスも感じられない。ただ雪代縁役の新田真剣佑の演技は彼の怒り、悲しみ、危うさを見事に演じていて、前述したように剣心との一騎討ちは前作のような派手さはないが、それが味になっていた。だから散々文句を書いてきたが、実写映画版は剣心が薫を救出する前にこれまでの回想があったことから、「自らの罪との向き合い方を知った剣心が、自身のせいで苦しみを抱えてしまった弟を神谷道場に来てからの経験から解放してあげる話」として捉えれば、実写映画版の剣心の物語のケリの付け方として中々味わい深い。

 

 

  • 最後に…

そんなこんなで「初鑑賞時はイマイチかと思ったけど、なんだかんだでやっぱ良い」となった本作。剣心と薫による巴の墓参りシーンで物語の幕を閉じるというのも余韻があって良かった。

 

  • 関連記事

mjwr9620.hatenablog.jp

mjwr9620.hatenablog.jp