ネタバレ注意
『金曜ロードショー』で細田守監督の『竜とそばかすの姫』が地上波初放送されるが、親から虐待を受けてる子供に対する描写は炎上確実なので、前半は擁護、後半は批判という形で個人的な見解を示しておく。
- 親から虐待を受けている子供の「助けて」
本作は50億人以上が集うインターネット仮想世界〈U〉で「ベル」として世界的な歌姫となった女子高生・すずがその世界での嫌われ者・竜の正体を突き止める物語。竜の正体は父親から虐待を受けている14歳の少年・恵ですずは彼のことを「助けたい」と思い、その気持ちを伝える。しかし恵は以下のようにすずの「助けたい」という想いを拒絶する。
すず「私、あなたの力になりたい。助けたいの。」
恵「助ける?どうやって?助ける、助ける、助ける。今まで何度も聞いた。『お父さんとよく話します。』『お父様と話し合いました。』『お父様はよく分かってくださいました。』、でもどうにもならなかった。助ける、助ける、助ける。ねぇ、なのに、何ができるっていうの?助ける、助ける、助ける。何も知らないくせに。助ける、助ける、助ける。口先だけならなんだって言える。なのに助ける、助ける、助ける。『あなたたちを助けたいの』『あなたたちの力になりたいの』助ける、助ける、助ける。憐れんで泣く、同情で泣く。でも結局何も変わらない。助ける、助ける、助ける、助ける、助ける、助ける、助ける。うんざりなんだよ!もう出ていけ!」
繰り返される「助ける」というワード。このセリフからはかつて恵が外部から差し出された手に裏切られ続けた過去が窺える。そしてこうした問題は実際の社会にも存在する。以下『朝日新聞デジタル』からの引用。
16歳だったリョウは(児童相談所に)「保護してください」とお願いした。職員は「お母さんにも話を聞かないと」「高校生だから、働けば家を出られるんじゃないの」。結局、「保護の約束はできない」と言った。
同記事には虐待を受けている子供は外部に助けを求める手段そのものを知らないケースが多い、とも記されている。そんな子供たちがようやく外部に助けを求めた結果、状況が変わらなかった場合、その子供は人間及び社会に対して絶望的な不信感を覚えるのではないか、と推測される。少なくとも本作の恵は他者からの「助けたい」という言葉に強い嫌悪感を示しており、人間及び社会に対する絶望を感じさせる。しかし本作の主人公・すずは恵を助けるために〈U〉で自らの顔を晒し、尚且つ自分の元へ駆けつけてくれた。恵にとって、自分のことを「助けたい」と述べ、実際に助けに来てくれた彼女の姿は最早絶望しかないと思っていた社会に現れた希望の光に見え、再び人間及び社会を信じようと思えるキッカケとなった。だから恵はラストですずに「戦うよ」とこの辛い社会で生き続けることを宣言する。
- 細田守監督と「公共性」
一方で本作は恵の「戦うよ」宣言後に行政に保護された等の描写がないことから「社会への不信感を増長させる作品」との趣旨の批判意見は目立つ。実際、本作は親から虐待を受けている子供が社会から見捨てられているという問題を描いておきながら、ラストは恵の「戦うよ」宣言で締まることから本来「社会が抱えているはずの問題」を「個人の気持ちの問題」で解決してしまっていることに問題の矮小化及びすり替えや菅前首相の「自助」的な嫌な感じを覚えさせる。勿論、「社会に正しいメッセージを発していない映画」がダメな訳ではない。しかし細田守監督は自身の映画に対して以下のような見解を述べている。
僕は東映にいて、アニメーションは子供が観るものという刷り込みがあるんですね。そのように考えたとき、作家主義的なものより公共性が先に来るべきだと。それを外しちゃうんだったら、作らなくていいよってなっちゃう。東映は、企業としていかに利益を出すかを真剣に考えている。その中にいる作り手は、商業主義の中でも実のあるものを作らなければというふうに考えるようになる。だから、東映が倫理的だったら僕はこうなってなかった。
細田守は他のインタビューでも自身の映画を時には「公園」と喩えながら自身の映画の「公共性」を主張している。このことを踏まえると、やはり多くの子供たちが観る東宝の夏休み映画で「社会への不信感を煽るだけ煽って、個人の気持ちに問題で解決する映画」というのは危うい感じはする。
- 社会への不信と自己責任論
また細田守監督は本作に対して以下のようなメッセージを込めたと語る。
今の社会に負けないでほしいという気持ちですよね。この物語を通して(主人公)は強くなります。その姿が、「負けないでほしい」という思いを体現しているんです。
【細田守インタビュー・後編】ネットの世界があるという前提で強く育ってほしい | アニメージュプラス - アニメ・声優・特撮・漫画のニュース発信!
「今の社会で負けない」という言葉からは「今の社会」に対する不信を感じさせる。それは本作の「48時間ルール」等の描写からも明らかだ。ここに細田守監督への「行政を信用していない」という批判を生んでいる。ただ根っこの部分で行政を信用していない、もしくは出来ない人間はこの世界に多く存在しているだろうし、実際に多くの問題も抱えている。それならば一層細田守監督はこの社会に対する不信感を思いっきり作品にぶつけて、社会をよくするための「行政批判」を堂々と作品に込めれば、また世間の反応も違うのだろうが、細田守監督はそれをしない。それが社会に対する諦めなのか、それとも自身の経験論故なのか、本当に興味がない、理解していないのか、は分からないが、それをしない。だから社会問題を「主人公の成長」のため(本作で言えばすずが母親を理解する)物語のために雑に消費しているようにも見えるし、自己責任論が蔓延したこの社会の空気を助長させる作品にも捉えられてしまう。
- 最後に…
個人的に細田守監督は自身の映画の「公共性」を主張するなら、前述したように社会を良くするための「行政批判」を堂々とすればいいのに、と思う。最後に自分は本作には色々な問題があるとは思ってるけど、好きな作品ではあることも記しておく。
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