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【駄作?時代を超えて愛される?】当初案は「父殺し」ではなく「母に逃がしてもらった」、宮崎吾朗監督『ゲド戦記』ネタバレ感想

ゲド戦記 [DVD]

スタジオジブリ・宮崎吾朗監督作品『ゲド戦記』を久々に観た。

 

  • 「駄作」扱いの理由

『ゲド戦記』は宮﨑駿監督の息子・宮崎吾朗監督の初監督作品。所謂「世界的アニメ監督の二世」であり、それだけでもやっかみを買いそうな要素だが、吾郎監督は「父親の背中を追ってこれまでコツコツとアニメーション制作の経験を積んできた」とかではなく、これまで建築の仕事をしてきた人間で、アニメ制作の経験はなし。そんな人間がいきなり監督デビューを果たせば、当然世間の目は厳しくなる。勿論、それを跳ね返すほどの圧倒的な力が作品にあれば話は違ったのだろうが、残念ながらそういうレベルには至っていないので、世間的には「駄作」扱いされている。また宮崎駿監督が試写会で上映の途中で席を立ち「気持ちで映画、作っちゃいけない」と苦言を呈したことや原作者からの批判も本作が駄作であることを強烈に裏付けるエピソードとなってしまっている。

 

 

  • 実は結構好評価な部分も?

一方で本作は興行収入78.4億円の大ヒット作品で、公開から20年近く経っても『金曜ロードショー』で繰り返し放送されて、毎回それなりの視聴率を記録していることから、世間的な駄作イメージとは別に、「時代を超えて愛される作品」として受け入れられているのも事実だろう。少なくとも『金曜ロードショー』で1回しか放送されなかった高畑勲監督『ホーホケキョ となりの山田くん』よりもエンタメとして大衆ウケしているのは間違いない。実際、事前に駄作だと思って鑑賞すると、特に前半は「主人公の表情が宮崎アニメの溌剌さと正反対の厨二感で戸惑ったりはするけど、冒頭の竜同士の共食いアクションは迫力があるし、主人公・アレンが開幕早々父親を刺殺するのもメタ的にもインパクトがあるし、『人間によって世界の均衡が崩れている』というジブリらしい大量消費社会を批判するテーマ設定も良いし、華やかさの影に闇がある町『ホート・タウン』もダークファンタジーとしてワクワクさせられる」と結構ポジティブな印象を受ける人も少なくないと思う。アレンがテナーの家で畑仕事をしながら、ヒロイン・テルーと関係を深めていく過程も世間が求める「初期の宮崎アニメ」らしさがあるし、テルーが歌う『テルーの唄』も作品全体を包み込む優しさがあって癒される。

 

 

  • 後半の失速と「父殺し」

完成した映画は、じつは吾朗くんが最初に描いた絵コンテとはすこし違っています。たとえば、冒頭のアレンが旅へ出る場面。吾朗くんはお母さんが逃がしてやるという設定にしていました。おそらく彼はそこに自分自身を投影していたんでしょう。でも、僕は映画のためにも、彼のためにも、それじゃだめだと思った。

<出典:『天才の思考 高畑勲と宮崎駿』 /鈴木敏夫>

こう振り返っていくと「そんな悪い映画じゃないよね、寧ろ結構良いかも」くらいの気持ちになってくるのだが、前半の壮大なスケール感に対して後半はテナーの家とクモの城を行ったり来たりしながら、「アレンは死ぬことじゃなくて、生きるのを怖がってるのよ!」とか「ほかの人が他者であることを忘れ自分が生かされていることを忘れてるんだ!」みたいな哲学的なセリフを聴かされながら、いきなりテルーが竜になってクモを倒すという唐突な展開が淡白な作画で描かれていて「もうちょっとどうにかならなかったのか…」感が半端ない。どうやら鈴木敏夫プロデューサーは前半の絵コンテはチェックしていたが、後半の絵コンテは敢えて見なかったことで生じた問題(鈴木P本人は「大反省」見解)のようだ。ただ鈴木Pも鈴木Pで宣伝のためなのか、吾郎監督案の「母親に逃がしてもらう冒頭」を「父殺し」に変更させたみたいだが、吾郎監督自身に「父殺し」の意図がなく(「父親を超えるアニメ監督になってやる」みたいな野心は感じない)、子供の頃に母親からアニメの世界に行くことを止められていたことを踏まえると、「母親に逃げ道を作ってもらった普段は無気力気味も不安から感情が抑えられなくなる面もある、偉大な父親にコンプレックスがある主人公が、外の世界の現実を知り、ハイタカとの冒険やテルーやテトーとの生活を通して、人のために生きることを学び、父親と自分に向き合う心持ちが出来て国に帰る」みたいな話の方が「吾郎監督作品らしかったのかな」とも思う。

 

 

  • 最後に…

鈴木敏夫P:(『ゲド戦記』を観た宮﨑駿監督は)「オレがつくってもこうなった」って。それは内容に関してです。二つ目は「真似するんなら元が分からないようにやれ」と。

「宮崎駿を跳び上がるほど喜ばせた」鈴木P・仕事の名言:朝日新聞

ただ吾郎監督らしさでいえば「鈴木Pによって父殺しをしなくてはならない状況になる」というのが、正に吾郎監督らしさなのかもしれない。最後に駿監督の試写会での呆れコメントの真意は鈴木Pの話と『コクリコ坂から』の際の「少しは脅かせって こっちを」発言と合わせると「真似するんなら元が分からないようにやれ」、つまり「オレの真似するなら、オレを超えて来い、これじゃ劣化コピーだ」という意味だったのかな、と感じた。要は父親の方は内心息子に殺されることを望んでいたのかもしれない。

ただ吾郎監督の方は「眞人=吾郎」とも解釈可能な宮﨑駿監督『君たちはどう生きるか』の後も「過去作ばかりではつまらないから、次回作でもつくってよ」みたいなことを言ってるので、依然「父殺し」の予定はない模様。将来的に「ジブリの宮崎監督といえば今や駿ではなく吾郎」レベルまでいって欲しいのだが…

 

 

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