細田守監督『果てしなきスカーレット』の「渋谷ダンス」の賛否が割れている。
- 最大の見せ場「渋谷のダンスシーン」
本作は殺された父親の復讐に取り憑かれた王女・スカーレットが、「生と死」「過去と未来」が混ざり合う「死者の国」で現代日本(近未来?)から送られてきた看護師の聖との旅路を描いた物語。劇中ではスカーレットが聖の暮らす渋谷で、自分と聖を中心にダンスを踊っている姿を幻視する。このシーンは予告編の段階でSNSでは良くも悪くも注目を集めていたが、本編が公開された後も「あのシーンが一番良かった」「悪い夢を見ているようだ」と賛否が割れている。ただ肯定派も否定派も「変なシーン」であるとの共通認識はあるようだ。
- スカーレットが復讐以外の可能性に気づく祝福
「復讐にとらわれ行き詰まっている彼女が別の可能性に気づく。それを祝福する歌とダンスなので、非常に明るく楽しいシーンにした」
細田守監督曰く、渋谷のダンスシーンは「復讐にとらわれ行き詰まっている彼女が別の可能性に気づく」という意図を込めた「祝福の歌とダンス」なのだという。要は数年前に流行った言葉を使えば「国ガチャ」、そして「時代ガチャ」。スカーレットは自分の人生は「復讐しかない」と思い込んでいたけど、自分とは異なる聖という存在と出会ったことで、違う国、違う時代に生まれていたら同じ自分でも今の自分とは全然違う自分がいて、それは逆説的に「今の自分にも復讐だけではない別の可能性があるのではないか」と気づいたわけではある。
- 唐突、困惑、気まずいの理由
勿論、大抵の観客には細田守監督の込めた意図自体は多かれ少なかれ伝わってはいる(というか、予告編の段階で「君がもし今みたいじゃなく、もっと違う風に過ごしていたら、どんなだろう」「もう1人の私!?」とのセリフがあるように作品の意図は明らか)のだと思う。ただそれでも渋谷のダンスシーンが困惑として受け止められているのは、そもそも作り手側が狙った「突飛さ」だけでなく、物語の流れ的にも物凄く唐突な感じがするからだろう。本作は中世と現代日本という異なる国と時代を生きていた2人のバディモノではあるが、劇中ではスカーレットも聖も互いが生きてきた時代について会話をして理解を深めていっている様子に乏しい。それにも関わらず夜に焚き火を囲みながら聖が現代日本で流行っている愛の歌について話していると、急にスカーレットが渋谷で踊っている姿(しかも『バケモノの子』の渋谷描写の魅力や密度には遠く及ばず<追記:「スカーレットの幻視した祝福だから、実像的に曖昧で映像的にも淡い色彩」との意見を見て「なるほど」とも思った>、連想させるのは『野原ひろし 昼メシの流儀』のOPのシュールさ)を幻視するので、作り手の想定とは異なる観客の戸惑いが発生しているように思えた。しかも謎に弓も馬も出来るのに踊りは苦手な聖もスカーレットの幻視の中ではノリノリで踊っており、そのことをスカーレットが聖に感極まった様子で話すと、聖も聖で「いや、オレはそんなに踊れないよ…」と困惑したりしていて、より気まずいシーンになっていたように思えた。
- 最後に…
これはSNSとかで散々指摘されていることだけど、細田守監督の単独脚本作品は前作『竜とそばかすの姫』のラストの「女子高生を虐待父の所に1人で向かわせる」にもあったように、「やりたいシーン」に辿り着くまでのプロセスに難があって観客を困らせてしまっている感じはする。そのためどうしても結論としては「脚本をもっと練ってくれ…」となってしまいがちだ。最後に幻視する渋谷の自分が日常系ではなくダンスなのは、引用したインタビューにあるような「祝福」に加えて、単純に細田守監督がミュージカル映画が好きなのと、「平和への第一歩目はまずみんなで楽しく歌って踊ろう!」という理想主義的価値観からなのだろう。
- 追記
⚔ #果てしなきスカーレット語録 ⚔
— 【公式】『果てしなきスカーレット』@スタジオ地図 (@studio_chizu) 2025年12月7日
𝟏𝟎 | 2034年/渋谷
スカーレットが内面世界で旅をし、
聖が存在する未来の世界。
2034年に想定されている
渋谷の未来図がモデルになっている。
映画『#果てしなきスカーレット』
🎥大ヒット上映中 pic.twitter.com/h2jJF3PTip
鑑賞中は「困惑」が圧倒的に勝ってたけど、少し期間が空いてから振り返ると渋谷のダンスシーンが一番印象に残っているし、「近未来の渋谷のデザインもかなり好きだな」みたいな印象に変わり始めた。ただクリーンなイメージを前面に押し出しているのことで、「汚いモノは徹底的に排除された先の未来」感も出てしまい、ディストピアっぽい、新興宗教のイメージ映像っぽい怖さもある。
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