ピクサー『トイ・ストーリー5』のデジタルデバイスの扱いについての感想。
『トイ・ストーリー5』は「スマホやタブレットなどのデジタルデバイスの登場によって、子供たちが早々にオモチャと遊ばなくなってしまった!子供がオモチャで遊ぶ時代は終わってしまったのか…」的なストーリー。近年のディズニーの自社サブスク「Disney+」への力の入れように加え、初期ピクサーの出資者がAppleの共同創立者であるスティーブ・ジョブズだったり、ピクサーの初長編作品である『トイ・ストーリー』が約30年前に「世界初の長編3DCGアニメ映画」として公開されたことで結果的にアメリカの長編手描きアニメ映画を絶滅状態に追い込む大きなキッカケを作っていることを踏まえると中々の設定である。
そんな『トイ・ストーリー5』なので、当然「デジタルデバイスが絶対的な悪」みたいな描かれ方はしない。パンフレットで監督が「僕が小さかった頃はテレビが問題視され、うちの子の時代はビデオ」と語っているように、長編アニメ映画が手描きから3DCGになったように、カーボーイ人形の地位が宇宙ブームに取って代わられたように、「どの時代にも新しいモノが出てきて、それは問題を引き起こし、古いモノは役割の審判を受け、最終的には必要となくなる覚悟を受け入れた上で現段階はそれぞれの良さを認め合って共存していくしかない」というデジタルデバイスに限らない普遍的な話となっている。 その意味では本作も「新しいモノ」と「古いモノ」の二項対立からの勧善懲悪でシロクロ付けるのではなく「落とし所」を見つけるピクサーらしいラストとなっている。
ただ個人的に「ゲームでの遊びも子供にとっての本当の遊びだろ」派の人間なので、ジェシーが古いデバイスたちに「君たちは本当の遊びを知らない」とか言い始めて、古いデバイスたちが子供に遊んでもらうことで「本当の遊びを知る」的な展開は、その手前で「彼らにも彼らなりのアナログなオモチャと同様に子供と触れ合った大事な時間があったんだな…」とジーンと来てたのもあってイマイチ乗り切れなくもあった。また本作では「デジタルデバイスの登場でオモチャとしての自信を失ったジェシーが最初の持ち主・エミリーが大人になった後も彼女の中に自分が存在したことを知って自分の役割を再確認する姿」が描かれたが、本来はこの描写こそ子供が一人でトイレが出来るようになったら必要なくなるトイレトレーニングマシーンのスマーティー・パンツや子供用タブレットのリリーパッドに役割を吸収された子供用デジタルマップのアトラスと子供用デジカメのスナッピー、そして将来的に大人用のタブレットへのゲートウェイでしかないリリーパッドに必要な描写だったのではないかと感じる。大人になった子供は忘れてしまっているかもしれないけど、今その子が1人で当たり前のようにトイレが出来るのも、今その子が地図で現在地と目的地が確認出来るのも、今その子が写真を撮る楽しさを知っているのも、今その子がデジタルデバイスを使いこなせるのも、その原点は彼ら彼女ら子供用デジタルデバイスにあり、今のその子を形作っている、とかの方がジェシーに「本当の遊び」を教えてもらう展開よりずっと良かったのではないか。
「デジタルデバイスによって子供がオモチャで遊ばなくなる問題」も提示した割に着地点は「ボニーは他の子供と違って想像力豊かでオモチャと遊ぶ優しい女の子(ただしアンディからやや強引にも見える形で譲り受けたウッディの存在は記憶の彼方の模様…)」路線で同じ価値観の友達を作るエンディングはフワッと逃げた印象も拭えない。またジェシーがデジタルデバイス遊びを「子供にとっての本当の遊び」と認めないの含めて若干「ゲームがないと友達が出来ない?そんな友達はいらないから、ゲームをやらない友達を作りなさい」的な老害毒親おばあちゃん感は漂う。ピクサーだって「3DCGは手描きと違って本当のアニメじゃない」とか言われたら不愉快だろう。
- オマケ
今回の映画と合わせて発売されたリリーパッドのタイアップ商品、「子供用タブレットでiPadへのゲートウェイ商品か」とツッコもうと思ったら、iPadのケースで「ゲートウェイどころかダイレクトに子供とiPadを結びつけようとしてて色々と凄いな」と感じた。
- 関連記事



