アマプラで配信が開始される山崎貴監督『ゴジラ−1.0』の主人公・敷島は大戸島で呉爾羅を撃つべきだったのか、否かの話。前半は公開当時の個人的な感想、後半は小説版や山崎貴監督のSNSやインタビュー内容を踏まえた内容。
- ストーリー的には「撃つべき」に見えるが…
自分は本作を公開日に初鑑賞した際に冒頭の大戸島で敷島が呉爾羅を撃つか撃たないかで葛藤しているシーンで、主人公の目の前に迫る呉爾羅の迫力から「これは下手に刺激しないでやり過ごした方が良いのではないか」と感じた。その際に敷島は呉爾羅は撃たなかったが、恐怖に負けた別の日本兵が呉爾羅に向かって発砲。それをキッカケに呉爾羅は大暴れを始めたので、この段階で自分は「なるほど、予告編で敷島が『この怪物は許しちゃくれない』みたいなことを言ってたから、この後平穏な暮らしを邪魔されて怒ったゴジラが日本を襲って、その一部始終を目撃していた敷島がそのケリを付けるためにゴジラに立ち向かう話なんだな!」と思った。
一方で実際の物語では敷島は自分があの場で引き金を引けなかったことに苦悩して、それは「特攻から逃げた件」と「典子と結婚しなかった件」に重なっていく。そして最後まで「大戸島でゴジラを撃てなかったから悪い」から「あの時、他の日本兵が撃ったことでゴジラを怒らせていたのでは…」みたいな逆転はなく、自分は「この映画は逃げてばかりだった敷島が今の自分が一番大切な明子の未来を守るために今度こそ自身が立ち向かうべき相手と戦うん話なんだな」と、敷島は劇中において明確に「撃つべきだったんだ」と認識を改めた。しかし鑑賞後も「アレ撃たない方が良かったのでは…」感は否めなかった。また特攻云々の件などは別記事に書いたのでここでは控えるとして、山崎貴監督の映画の中でも『寄生獣 完結編』の後藤との戦いの結末と「人間は業を背負って生きていく」というメッセージが好きな自分にとっては「ゴジラは敷島たちのトラウマを解消するための倒すべきモンスター (大戸島で仕留め損ねたから、今度はちゃんと仕留めて戦争を終わらせる)」という流れで進んでいった本作は敗戦直後の日本に現れる戦争のメタファー(それも今回は「倒すではなく鎮める対象」)であるゴジラが理不尽な被害の側面ばかり強調される自然災害的アプローチが取られていることも含めて「うーん…」みたいな部分はあった。また純粋に前半の海中戦で敷島が引き金を引けずに「ここでも何もできなかった…」となる訳ではなく、勢いで引けてしまうのも「逃げてばかりだった男が自分の守りたい人たちのための未来のために決意を固める物語」の構成として中途半端に思えた。
※ 山崎貴監督「『ゴジラ』は、戦争と核の象徴であるゴジラを鎮めるという話。この『鎮める』という感覚を世界が求めていたことが、ヒットの一部につながったのではないかと思います」/出典:米アカデミー賞、日本の2作品が受賞 「君たちはどう生きるか」と「ゴジラ-1.0」 - BBCニュース
- 呉爾羅が日本兵を襲ったのは撃たれたから
こんな化け物に機銃を撃ち込んで無事でいられるわけがない。
敷島の本能がそう叫んでいた。
そもそもこの生き物は、人間がどうこうしていいものじゃない。
敷島はただただ息を殺して、呉爾羅が去るのを待った。
このままでいれば、やがて呉爾羅は海に帰ってくれるかもしれない。
そんな思いは、突然の銃声にかき消された。
恐怖に耐えきれなくなった若年兵が、思わず99式短小銃を撃ってしまったのだ。
それをきっかけに次々と短小銃が発射された。
「撃つなバカー」
橘の制止も聞かず、次々と短小銃が撃たれた。
恐怖が銃の引き金を軽くしていたのだ。
<小説版『ゴジラ−1.0』/集英社>
ただそれならそれで「面白かったこと」と「凄かった」ことを大前提に「自分が期待していた内容と違って物足りなさがあった」で終わりだった訳だが、山崎貴監督が執筆したノベライズ版を読むと「この生き物は、人間がどうこうしていいものじゃない」と本能的に捉えた敷島は「撃たずにやり過ごすべきだ」と判断していたにも関わらず、恐怖で銃の引き金が軽くなった他の日本兵らが発砲をしたことで呉爾羅の暴走を招くという自分のファーストインプレッションと一致する形の描写となっていた。
平岡があの時ああしなければ https://t.co/IaZSVhAvYn
— 山崎貴 Takashi Yamazaki (@nostoro) 2024年1月11日
そもそも小松君が撃たなければあんなことには。 https://t.co/EPMZYVf4KN
— 山崎貴 Takashi Yamazaki (@nostoro) 2024年4月29日
また山崎貴監督はXでも自分が確認した範囲では少なくとも2回は「あそこで撃たなければあんなことには…」という趣旨の投稿をしている。
【追記】音声ガイドを聴いたら山崎貴監督が日本兵が撃ったシーンで「絶対コイツのせいだろ!」「敷島はそんな悪くないよ」「撃たなかったらそのまま帰っただろうに」、死体が並んでいるシーンで「この中に撃った奴もいるけどな」みたいなことを言ってて笑ったが、敷島の仲間の発砲をそういう風に切り捨ててしまう所に本作の限界を感じたりもした
- 敷島が撃っても再生能力のある呉爾羅は…
――劇中で敷島は、「あの時に殺してればこんなことにならなかった」みたいなセリフを吐露しますが……。
山崎 大戸島に上陸した「呉爾羅」は、そもそも再生能力を備えていましたので、零戦の20mm機関砲で射撃しても、その場ですべてが解決したとは思えないですね。
『ゴジラ-1.0』山崎貴監督スペシャルインタビュー!ゴジラデザインと対戦兵器について語る – Hobby JAPAN Web
その上、山崎貴監督はインタビューで「呉爾羅は再生能力があるから敷島が撃っても多分解決しなかった」という趣旨の発言もしている。更にパンフレットのインタビューではそもそも本作は「敷島が好戦的なキャラで呉爾羅を撃ったことで大惨事になってトラウマを抱えるパターン」と「撃てなくてトラウマを抱えるパターン」の2つがあり、敷島役が神木隆之介に決まった段階で「撃てなかったパターン」が採用されたという。そのため山崎貴監督的には「あそこで敷島が撃っても解決しなかったし、結果的に他の日本兵が撃ったから大惨事になった」と思っているが、敷島が「自分だけ生き残ってしまった」というトラウマを抱えるプロセスにおいては「撃ってトラウマ」か「撃たないでトラウマ」かはどちらでも良く、実際公開された映画は素直に見れば「撃つべきだった」という認識になる物語になっているという結構チグハグな結論が導き出される。そして「撃たないでトラウマ」を採用したことで、「特攻から逃げた件」と「大戸島で引き金が引けなかった件」の共通項が「自分だけ生き残ってしまった」よりも「戦うべきところでちゃんと戦えなかった」が強調される結果となり、山崎貴監督が伝えたかったであろう「敷島が生き残ってしまった罪悪感から解放される物語」ではなく「敷島が戦う覚悟を決めて特攻をやり直す物語」と捉える人が出てきてしまった(とは言っても、そういう風な映画にもなっている)のかな、とも思った。
※「特攻から逃げた件」も小説版では共に出撃した仲間たちに後ろめたさがあることが補完されており、尚且つ特攻から逃げる理由としていた「生きて帰る」と約束していた母親が空襲で亡くなったことも合わせて「自分だけ生き残ってしまった」ことに罪悪感を抱いていることが分かる
※銀座襲撃直後に大戸島の仲間の写真と両親の位牌に向かって敷島が「許しちゃくれないってわけですか…」とケタケタ笑うのは、小説版を読むと「自分だけ生き残るのは許されないってことですか」という心境
- 最後に…
アメリカの核実験で生まれた存在が、日本に上陸して日本の街を壊すって、そもそもおかしな話なんですよね(笑)。なんで日本に当たり散らかしてるんだ? って。でも、日本人にはそれを受け止めてしまう宗教観みたいなものがある。それは何かと考えると「祟り神だからしょうがない」という感覚なんじゃないかと。
【ネタバレあり】「ゴジラ-1.0」神木隆之介×浜辺美波×山崎貴監督、ゴジラ愛あふれる本音トーク : 映画ニュース - 映画.com
そんなこんなで物語全体から受け取れる印象と異なり山崎貴監督的には「撃たない方が良かった」という認識みたいなので、「あの大戸島の件と日本襲撃の件に敷島は因果関係を感じないんだ…」と思っていた自分としては「『他の日本兵が撃ってしまったこと』が山崎貴監督が主張する『神殺し』における『神を怒らせてしまったキッカケ』として、ストーリーに上手く活かせなかったのかな…(要は敷島たちは被害者でもあり加害者でもあった、という形で戦争の両面を浮き彫りにしながら「それでも人間は業を背負って生きて行くんだ…」という風には出来なかったのかな…)」と残念に感じた。ラストの典子の首に浮かび上がっってきた痣がそれなのかもしれないが…
- 追記
小説版では冒頭の大戸島で敷島は「そもそもこの生き物は、人間がどうこうしていいものじゃない」、ラストの敬礼のシーンでト書きで「もしかすると人間がやってはいけないことを、彼らは成し遂げてしまったのかも知れなかった」と記されていることから、敷島は「大戸島で仕留め損ねたゴジラを今度こそ倒したが、そもそも大戸島で他の日本兵が攻撃したのがやっぱり間違いだったんじゃないか…」みたいなことを思っても良さそうだが、特に敷島の中で冒頭とラストが繋がることなく、ゴジラを倒して自分は脱出装置で生き残る選択をして「戦争が終わらせることが出来た…」とスッキリして終わってしまうのは、何か物凄い消化不良みたいな物足りなさはあった。
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