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【ネタバレ】戦争を生き残ってしまった元兵士たちが自分たちの意思で生き残る、山崎貴監督『ゴジラ−1.0』と「生きて、抗え。」

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山崎貴監督『ゴジラ−1.0』、複数の監督インタビューや監督が「戦争観が近い」「インスピレーションを得た」という戦争の生き残りを描いた漫画『あれよ星屑』、映画撮影後に「ここ足りなかったな」と思った要素を追加した書き下ろしの小説版などを踏まえた結果、あの作品で描かれた「生きて、抗え。」及び「自分たちの戦争は終わってない」の意味は「自分も死ななければいけない、生きていてはいけない」という強迫観念から抜け出すことだったのだろう、と思った。

 

  • 特攻と大戸島で生き残った敷島のトラウマ

押し返された敷島はバランスを失って位牌が置かれた木箱にぶつかった。油紙の包みが落ちて中から写真が散らばった。そこに写った整備兵とその家族達が一斉に敷島に視線を向けてきた。皆無言だったが、何を言いたいのか敷島にはすぐにわかった。

―― なぜまだ生き長らえている??

「わかっている。わかっているよ」

落下した写真の兵士や家族が、じっと敷島を凝視していた。

「許しちゃくれないってわけですか」

突然敷島はケラケラと笑い始めた。

<小説版『ゴジラ−1.0』/集英社>

主人公の敷島は映画だけではなく小説版の描写も踏まえると「『お国のために立派に死ぬことで役目を果たそう』と誓った仲間を裏切り、特攻から逃げた件」と「『終戦を待って共に日本に帰ろう』と約束した大戸島の仲間たちを見殺しにしてしまった件」、そして戦争が終わり日本に帰国した結果「生きて帰ってくる」と約束していた両親が空襲で死んでしまっており、「自分も死ななければいけない、生きていてはいけない」という強迫観念に持っている。だから夢の中で大戸島の件が繰り返し再現されて特攻仲間からも「卑怯者、お前は何故生きている」と批判されて「自分も死ななければならない」と苦しんでいる。劇中で繰り返し出てくる仏壇の両親の位牌と共に置いてある大戸島の仲間たちの写真も「お前は何故生きている、お前も死ななければならない」と常に訴えかけられている気分になっている。一方で敷島は復興していく街並みと新しい時代に適応して自立していく典子に戦中に取り残されている自分との溝を感じながらも、自身が特攻から逃げた件や大戸島で仲間を見殺しにしてしまった件を知った上で自分に生き続けることを望んでくれる典子の存在などから「自分もやっぱり生きていたい」と気持ちの変化が訪れる。しかしその敷島の「生きたい」という希望を否定するようにゴジラが銀座を襲撃して、自分に「生きていて欲しい」と望んでくれた典子を奪ってしまう。ここで敷島は大戸島で死んだ仲間たちの写真を見ながら「許しちゃくれないという訳ですか」とケタケタと笑う。これは「やっぱり自分は生きていてはいけない、死ななければならない」という疑念が確信に変わったときだった。だから敷島は大戸島の仲間たちと典子の敵討ちのために自分の命を持ってしてゴジラと決着を付けることを決める。

 

 

  • 「死ぬためではなく未来を生きるための戦い」

「あいつらだってバカじゃない。これが命がけのしんどい作戦だってことは良くわかっているさ。だがな、みんな良い顔してるじゃねーか?嬉しいんだよ、今度は役に立てるかもしれないってことがな」

「役に立つ・・・・・・か」

「俺達は戦争を生き残っちまった。だからこそ、今度こそはってな」

「……思えば、この国は命を粗末にしすぎてきました。脆弱な装甲の戦車、補給軽視の結果、餓死・病死が戦死の大半を占める戦場……戦闘機には最低限の脱出装置も付いていなかった。しまいには特攻だ玉砕だと……だからこそ今回の……民間主導の今作戦では一人の犠牲者も出さないことを誇りとしたい。今度の戦いは死ぬための戦いじゃない。未来を生きるための戦いなんです。」

<小説版『ゴジラ−1.0』/集英社>

この敷島の「自分たちは生き残ってしまった、死に損なった」という感覚はゴジラ討伐のために集まった元海軍の兵士たちも持っていた。秋津はゴジラ討伐の準備をする彼らの笑顔を見て「良い顔してるじゃないか、嬉しいんだよ、今度は役に立てるかもってな」「俺たちは戦争を生き残っちまった、だから今度こそはってな」と戦争を生き残ったモノたちの気持ちを代弁するが、その際に「役に立つですか…」と複雑そうに発した野田がその直後の作戦本部での演説で「この国は命を粗末にし過ぎた」「しまいには特攻だ玉砕だと」「今作戦は犠牲者0を誇りにしたい」「今度の戦いは死ぬためではなく未来を生きるための戦いです」と述べていたことを踏まえれば、秋津の「役に立つ」は「先の戦争で負けて日本を守れなかったからゴジラに勝って日本を守ることで役に立つ」ではなく「先の戦争でお国のために立派に死ねなかったから、ゴジラとの戦いで今度こそ国のために立派に死んで役に立つ」という意味で言っていたのではないか。

 

※当時「学徒出陣」した学生の1人は「自分が死ぬことが国の役に立つことだと考えていた」と証言しているように戦時中は「お国のために立派に死ぬことで役に立つ」という価値観があった/出典:学徒出陣から80年 出征した人たちの証言など紹介する企画展|NHK 首都圏のニュース

 

アッツ島守備隊の全滅は、補給を軽視した作戦が原因でしたが、大本営の作戦指導が厳しく問われることはありませんでした。それまで敗北を伏せる傾向にあった大本営は、守備隊が補給を求めずに自ら「玉砕」し、皇軍(日本軍)の神髄を発揮したと、新聞やラジオで大々的に発表しました。国葬や慰霊祭が執り行われ、山本長官やアッツ島守備隊につづけと、一般市民にも死ぬまで戦うことを求めるようになっていった/出典:日本中に衝撃 山本五十六長官の死とアッツ島“玉砕”|NHK戦争を伝えるミュージアム 太平洋戦争をわかりやすく|NHK戦争証言アーカイブス

 

 

  • ゴジラとの戦いを自らの意思で生き残る

「笑えますね・・・・・・生きたいようです俺は。ハハ」

「あの日、死んだ奴らもそう思っていたよ。みんな生きて帰ってきたかった。そして願い叶わず虫けらみたいに殺されたんだ。あんたのせいで」

「わかっています」

「生きろ」

橘に掴まれた肩が熱かった。

敷島は橘がどれほどの気持ちでその一言を言ったのか考え、そして大戸島のみんなを考え、ただただ自分の膝元を見ていた。

<小説版『ゴジラ−1.0』/集英社>

つまりゴジラ討伐に参加した戦争の生き残り達は敷島含めて「死ぬための戦い(野田が演説していたように戦争末期は特攻、玉砕と勝つことより死ぬことが目的化して美化された)だった先の戦争で死に損ねたから、今度の戦いでは役目(お国のために立派に死ぬことで先の戦争や敷島に関しては大戸島で亡くなった仲間の元へ行く)を果たそう」としていたが、それは戦中の日本で作られた空気が悪い(ここら辺は『アルキメデスの大戦』のラストでも似たようなことを演説させていた)のであって、ゴジラ討伐を通して「みんなで死ぬこと」ではなく「みんなで生き残ること」を目標とすることで「自分は生き残ってしまった、死ななければならないのではないか」というトラウマを乗り越えよう、という意味での「生きて、抗え。」であり「自分たちの戦争を終わらせた(死ぬのではなくこの先を生きていく決意を固めた)」だったのではないか。そのため本作においては戦争を生き残ってしまったという罪悪感を抱く元兵士たちが「ゴジラ討伐という絶好の死に場所」で「勝った」「負けた」に関係なく「先の戦争と異なり自らの意思でみんなで生き残った」ということが重要なのだろう。

 

※敷島に関しては「特攻から逃げ、大戸島で仲間たちを見殺しにしてしまった自分だけが生きているのはおかしいからゴジラに特攻して自分も死のう」から「明子の生きる未来を作りたいから、自分の命をかけてゴジラに特攻しよう」という「特攻の目的」の変化と、更にそこから「整備兵として多くの特攻兵を送り出し、共に大戸島で仲間を見殺しにして生き残ってしまった橘の『生きろ』という想いに応えたい」という「あそこでみんなと一緒に死ぬべきだった」という価値観からの解放という心境変化の二段階になっている

 

 

  • 最後に…

ただ「戦争で生き残ってしまったトラウマ」と敷島の「特攻から逃げた件」と「大戸島で引き金を引けずに仲間を見殺しにしてしまった件」を「ゴジラ討伐」を通して解消する物語に落とし込め、尚且つ『海賊とよばれた男』的な「戦後の日本を救った男たちがいた」というノリも含めて演出した結果、「自分も死ななければならない」という強迫観念を乗り越えて「生きる決意をする物語」というメッセージより「戦争で生き残って不能感を抱えた負け犬たちがゴジラ討伐を通して生きる力を取り戻す物語」みたいな好戦的な印象を与えてしまった部分もあるのではないか、と思った。一方で観客にどう受け取られているのか、は別に山崎貴監督的には『永遠の0』の時と同じで「ベタベタの反戦映画」を撮ったという認識なのだろう。だからラストの典子の痣とゴジラ復活の匂わせも「彼らはこれから先の未来を生きる決意を固める意味で自分たちの戦争を終わらせることに成功したけど、戦争自体に真の意味で終わりはない」という意味だったのではないか、と感じた。もちろん自分の捉え方が間違っていて、世間一般の受け取り方が監督の真意の可能性もあるが… ただ自分の捉え方が監督の意図と一致していたとしても何かが誤魔化されている感はどうしても残るが、山崎貴監督自身が「戦争の正体を知りたくて映画を作ってるけど、複雑過ぎてどんどん分からなくなっていく」という趣旨の発言をしていたから、この「何か引っかかり続けるな…」みたいな感覚は大事で変に分かった気になる方が危険なのだろう。

 

【オマケ】山崎貴監督が「戦争観が近い」「インスピレーションを得た」という『あれよ星屑』を読むと「傑作になり損ねたな…」「この作品を理想としているのに…」「今の時代に作る架空戦記としてもう少し何とかならなかったのか…」という残念感も強くなる一方で「商業作品へのチューニングの仕方が良くも悪くも上手いんだな」とも感じた。

 

 

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