山崎貴監督『ゴジラ−1.0』には「ゴジラを倒すことで敗戦のコンプレックスを上書きしているだけの作品」「反戦映画に見せかけた戦意高揚映画」「日本の被害の側面しか描いていない」的な批判がある。
- 戦争やり直しモノ
実際、日本には「戦争やり直しモノ」的な作品は少なくない。例えば山崎貴監督の『SPACE BATTLESHIP ヤマト』の原作アニメ『宇宙戦艦ヤマト』について庵野秀明監督は以下のように指摘している。
宇宙戦艦ヤマトは戦争に負けた国でしか生まれない作品だと思います/当時の人々の第2次大戦、太平洋戦争に対する無念さ、口惜しさ、空しさ、哀しみ、怨念、そして願望等が塗り込められた作品だと思います
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『宇宙戦艦ヤマト』に対してこの手の指摘は庵野監督以外からもされており、こうした指摘を踏まると「敗戦の象徴の一つでもある大和をベースにした宇宙戦艦と日本人乗組員が人類最後の希望となる」みたいな物語は「確かにな」と思わせる。
また同じく山崎貴監督が百田尚樹氏の小説を実写映画化した『海賊とよばれた男』は戦後の欧米との石油争いに日本が勝利し、その結果欧米から搾取されていたイランを救うというストーリーだったが、原作では「アジア・太平洋戦争(原作では大東亜戦争)は石油に始まり、石油に終わった」と位置付け、最後は「敗戦によって失われた日本民族としての誇りを取り戻した」ことが強調されることから敗戦を「アジア解放」を伴う石油争いに勝利したことによって上書きする作品として良くも悪くも認識されている。現に山崎貴監督は公開時のインタビューで本作の見所とされる「日章丸事件」について以下のような見解を述べている。
それ(日章丸事件)を日本人がもろ手をあげて歓迎したというのが、ある種の復讐戦だったのかなとも思いつつ、よくぞよくぞ決意したなと
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「ある種の復讐戦」という表現からは「日章丸事件」が敗戦へのリベンジとして受け止められていた側面をうかがわせる。
- 反戦映画?それとも戦意高揚映画?
『ゴジラ-1.0』
— 『ゴジラ-1.0』【大ヒット上映中】 (@godzilla231103) 2023年10月30日
公開まであと4日
<キャラクター紹介>
水島四郎 / #山田裕貴
戦後処理の特殊任務を請け負う船・「新生丸」に乗り込む見習い。#11月3日公開#ゴジラ#ゴジラマイナスワン#生きて抗え#GodzillaMinusOne#Godzilla pic.twitter.com/tL4NyA1WCx
こうした文脈において『ゴジラ−1.0』のゴジラと民間の対決は「あの戦争のリベンジ」としての側面を持ち合わせており、劇中でも主人公・敷島らが「まだ自分たちの戦争は終わっていない」と繰り返すことから製作側もそうした意図を込めて作っていることは間違いない。そしてここで問題となるのは本作は先の戦争の「何をやり直しているのか」だが、本作では「反戦映画」として受け取る人が大半の一方で一部では「戦意高揚映画」として受け取ったという声もある。
その背景には「敷島と橘の物語」と「水島の物語」から感じ取れるメッセージが異なるからではないか、と感じる。まず「敷島と橘の物語」においての「先の戦争のやり直し」は「日本軍による命を粗末にした戦いを否定して、未来を生きるための戦いをする」ことだった。このストーリーを素直に受け取れば「反戦映画」という認識になる。(正確には反戦というより旧日本軍否定)一方で「水島の物語」にフォーカスを当てると戦争を知らない若い世代の水島は物語前半では「自分も戦争で活躍したかった」と軽口をたたいて敷島から「二度とそんなこと口にするな」と怒られ、秋津らには「戦争を知らない世代を巻き込む訳にはいかない」とゴジラ討伐作戦の参加を拒否されているにも関わらず、物語後半でゴジラ討伐作戦のピンチに駆けつけた際には「まだまだ小僧だと思ってたヤツが一丁前に大人の顔して助けに来やがった」みたいなカッコいいシーンとして描かれ、大人サイドによる「結局、戦争を知らない世代を戦いの場に立たせてしまった」的な後悔は特に描かれない。「終戦直後の日本を舞台に戦争に生き残った人たちのエンタメ映画を作ることで反戦を訴えたい」というなら、ここは話の流れ的にも「水島が一皮剥けたことに対する喜び」と「結局、この戦いに参加させてしまった後悔」という相反する気持ちを描いた方が良かったのではないか。劇中のように「喜び」だけの演出になると「水島の物語」は「これまで子供扱いされていた青年が戦いの場に立つことで大人の仲間入りをした」「戦争に遅れてきた世代が戦いの場に立つことで自己実現を果たす」というストーリーとなり、戦争をバックにした前半のやり取りと合わせると「これはいいの?」感はある。
更に本作の中盤ではゴジラ討伐作戦の準備をする元軍人たちの姿を「生き生きしている」と語るシーンもあることから、一部で「主人公らに特攻を否定させることで反戦映画を装いながら、実際は戦意高揚のためのプロパガンダ映画なのではないか」と疑念を抱く人がいるのも不思議ではない。討伐後に元軍人たちが勝利に酔いしれるのではなく戦争の被害者の側面もあるゴジラに対して敬礼をしていることから、山崎貴監督としてはそういう意図はないのだろうが…
- 日本の戦争映画は被害の側面ばかり?
また日本の戦争映画はかねてより「被害の側面ばかり強調して加害の側面を描かない」「なぜ戦争が起きたのかに焦点を当てずにまるで自然災害のように扱う」との批判をされている。その典型例の一つとして2010年代の戦争映画の最大のヒット作である山崎貴監督の『永遠の0』は槍玉に挙げられがちだった。そして今回の『ゴジラ−1.0』で戦争のメタファーとなっているゴジラも「なぜ日本を襲うのか?」という理由は特に描かれていないし、山崎貴監督自身もインタビューで以下のように語っている。
アメリカの核実験で生まれた存在が、日本に上陸して日本の街を壊すって、そもそもおかしな話なんですよね(笑)。なんで日本に当たり散らかしてるんだ? って。でも、日本人にはそれを受け止めてしまう宗教観みたいなものがある。それは何かと考えると「祟り神だからしょうがない」という感覚なんじゃないかと。時代ごとに存在する不安や不穏なものが祟り神となって人々の前に現れて、みんなでそれを鎮めようとするのがゴジラ映画なのかもしれないなと思います。
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ただここで山崎貴監督は「ゴジラは時代ごとに存在する不安や不穏を表す祟り神なのではないか」との見解を示している。この「ゴジラは祟り神」という見解はシリーズの仕切り直しの1作を振り返っていくと1954年の初代は「第五福竜丸事件を含む戦争」、1984年版は「米ソの冷戦」、『2000 ミレニアム』は「世紀末」、『シン・ゴジラ』は「東日本大震災とそれに伴う福島原発の事故」、そして『ゴジラ−1.0』は「コロナ」とそれぞれの時代の不安と不安を表しているように思え、ある種の本質を突いているのかもしれない。その一方で「祟り神」という表現からはやはり「日本は不運に巻き込まれた」という被害の意識が強く、戦争映画における「なぜ戦争が起きたのかに焦点を当てずにまるで自然災害のように扱う」という批判にモロに当てはまる形となる。勿論全ての戦争映画に日本の加害性を反映させる必要はないし、「今回は本格的な戦争映画じゃなくてゴジラ映画なんだなら、別にいいじゃん…」との指摘もあるかもしれないが、山崎貴監督は音声ガイドなどで「大戸島の惨事は敷島が撃たなかったからではなく、他の日本兵が撃ったから」という趣旨の説明をしており、山崎貴監督が撮影後に書き下ろした小説版では敷島は「そもそもこの生き物は人間がどうこうしていいものじゃない」と判断していたことが示されている。その意味では今回のゴジラはアメリカの核被害だけでなく元から日本の土地なのかもしれないが、勝手に住処である大戸島を飛行場にされた挙句に日本兵を襲う前から銃撃されたりと日本からも被害を受けているはずだが、劇中では基本的に「戦争に比べれば大したことない!」「この国守れるのはオレ達しかいないでしょ!」「さぁって、いっちょやってやりますか!」のノリで倒される存在。何だかゴジラはちょっと可哀想だし、自分たちも他人の土地を踏み荒らしていた元日本兵が今度は自分たちの土地が踏み荒らされた途端に「これはこの国を守るための正しい戦いなんだ!」と生き生きしていく姿は「なんだかなあ」という感じもする。また山崎貴監督の主張する「神殺し」の視点からも大戸島の敷島は前述したように小説版で 「そもそもこの生き物は人間がどうこうしていいものじゃない」と考えていたのに、他の日本兵が発砲して暴れた生き物が日本を襲っていることに対して「あの時、あの生き物を怒らせてしまったんじゃないか…」という発想に至らず「神を怒らせてしまったキッカケ」とならないのも違和感がある。そのため今回のゴジラでは日本の加害性も強調させた方が「許しちゃくれなって訳ですか…」の重みも増してより怖いゴジラになったのではないか、という勿体無さも感じる。そのため山崎貴監督が当初考えていた「敷島は好戦的なキャラクターで呉爾羅を撃った結果、みんなが死んでしまった」というストーリーの方が良かったのかもしれない。敷島が今の設定でも「他の日本兵が撃ってしまった結果〜」の部分を「神殺し」視点における「神を怒らせてしまったキッカケとなった」ことをもっと強調して、少なくとも敷島だけはその可能性も考えている設定があっても良かったのではないか。そうすれば「自分たちは人命軽視の無能な政府と違って正しい戦い方をするんだ!」「これは自衛のための戦いで誰かが貧乏くじ引かなきゃいけないんだ!」みたいな先の戦争の反省点を一つずつ潰して戦いに正当性を持たせるような一面的な描き方ではなく、もっと深みがあったモノになったのではないか。そしてそれがないが故に「今回のゴジラは主人公らの戦争のトラウマやコンプレックスを解消するための倒すべき都合の良い装置(しかも無能な政府とGHQも吹っ飛ばしてくれる)でしかない」みたいな批判に繋がっているのだと思った。超絶深読みをすれば「アメリカの核によって姿形を醜く変えられてしまったゴジラは被害者でありながら、日本を襲う加害者でまある、そしてまた日本も…」みたいな見方も出来なくもないが、流石にそれはないだろう。
※『ゴジラ−1.0』は無能な政府とGHQに加えて皇居まで吹っ飛ばしているっぽいのが色々と凄い
※『アルキメデスの大戦』では「日本人は負け方を知らないから、軍部が白旗を上げようとしても民衆は許してくれずに、最後の1人が死ぬまで戦い続けるだろう」的なことを批判メッセージとしていれていたから、今回のゴジラにもそういう要素を入れても面白かったかも
※「日本の加害面を入れて、ゴジラを怒らせたキッカケにした方が良かったのでは」との意見に「政治的主張はいらない!」との反論もあるようだが、「日本が怒らせたゴジラを日本人が鎮める話」が「政治的」なら「アメリカが原爆実験で目覚めさせたゴジラを日本人が鎮める話」も十分「政治的」だと思うのだが、そこら辺はどう考えているのか疑問に思う
- 最後に…
山崎貴監督作品は『ALWAYS 三丁目の夕日』シリーズでは「昭和を美化している」、『永遠の0』でも「特攻を美化している」と「××を美化している」というタイプの批判を受けてきた印象があるが、その理由は「『良い感じの話』で『何か』を『覆い隠している』」感があるからである。それは今回の『ゴジラ−1.0』にも「民間が頑張る話によって最終的に政府が機能していない問題が有耶無耶に〜」「戦争における日本の加害面などが透明化されている」的な批判が生じているのにも通じる話なのだろう。そしてこの手の作品は作り手の意図とは別に政治的に利用される危険性が常に孕んでいる。
- 追記
反戦、厭戦という思いを乗せている映画なので、(世界の現状に対して)そうしたブレーキになってくれればいいなと思いました。
「ゴジラ-1.0」がヒット 山崎貴監督「戦争なくならない限りゴジラは死なない」<会いたい 聞きたい>:北海道新聞デジタル
山崎貴監督は本作を「反戦、厭戦」と位置付けている。実際、本作を掘り下げていくと「そもそも復員兵が傷ついているのは、戦争があったからで戦争してなければこんな気持ちになってないよね」という意味で「やっぱり戦争はない方がいいね」という結論に達するという意味では「反戦映画」である。これは「ゴジラがアメリカの原爆実験で被曝した」も同様である。
できるだけたくさんの人たちに見てもらえるエンターテインメント作品で、そんな(「戦争は嫌なこと」という)メッセージがボディーブローのように効いてほしい
「ゴジラ-1.0」がヒット 山崎貴監督「戦争なくならない限りゴジラは死なない」<会いたい 聞きたい>:北海道新聞デジタル
ただ山崎貴監督の意図に反して、そうした「戦争は嫌なこと」というメッセージが多くの観客にボディーブロー的に伝わっているのかと問われれば微妙だし、色々と上手くいってない部分が多いように思う。
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