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小説版の敷島は夢の中で出撃仲間から「こいつが卑怯者」、山崎貴監督『ゴジラ−1.0』が「戦争末期の特攻」を否定している理由

映画「ゴジラ-1.0」ポスター,「ゴジラ」の生誕70周年記念作品で、実写ゴジラ映画30作目, MINUS ONE 宣伝ポスターアートパネル 壁絵 モダン 絵画 インテリア絵画 壁アート 壁掛け絵画 宣伝ポスター 印刷物(並行輸入) N6 (50x75cm-フレームレス)

日本アカデミー賞の最優秀脚本賞を『ゴジラ−1.0』の山崎貴監督が受賞したことで「なんであんな特攻を肯定しているのか否定しているのかもハッキリしない映画が!?」という批判があるらしい。

 

  • 監督の意図と観客の受け取り方に乖離?

物語には、戦争の傷痕が色濃く映し出される。「第2次世界大戦は兵士の命が軽んじられ、ものすごい悲劇を生んだ。戦わなければならなかった人たちの姿を嫌だなと思ってもらえれば」と山崎。その上で、「世の中が戦争に傾きつつある今だからこそ、そういう物語が必要なんじゃないかと思った」と明かす。

ゴジラ、敗戦 いま訴えるもの 山崎貴監督(松本市出身)に聞く 70周年新作「ゴジラ―1・0」3日公開|信濃毎日新聞デジタル 信州・長野県のニュースサイト

『ゴジラ−1.0』のプロットは「特攻から逃げたこと」と「大戸島で引き金を引けなかったこと」をトラウマに持つ主人公がゴジラ討伐を通して「覚悟」を決める話とも取れるので、「特攻をし損ねた主人公が特攻の決意を固めることを美化している物語」という受け止め方をする人がいるのも分からなくもない。実際、敷島が「明子の未来を守りたい」と決意を固めていく様子は自身の戦う意味を見つけていく物語だといえる。また山崎貴監督はインタビューの中で戦争に傾きつつある今だからこそ本作を通して観客に「戦わなければならなかった人たちの姿を嫌だな」と思って欲しかったみたいだが、おそらく大半の観客はそういう風には受け取っていないだろうし、本作に対して「なんかこのノリ嫌だな」と思った人も多分監督の意図した嫌がられ方ではないだろうし、中には「祖国のために戦えますか」に繋げようと熱くなっている人たちもいて、作り手の意図と受け取られ方が乖離しているような気がしなくもない。

 

 

  • 「自分は生き残ってしまった」というトラウマ

—— これは死んだ人間だ ——

敷島は直感的にそう思った。

隊列の一番前に立った斉藤が、敷島を見つめて言った。

「なぜまだ生きているのか?」

すると、整備兵をかき分けて前に出てきた飛行服の男が敷島を指さして言った。その顔は、一緒に特攻に出撃した誰かの顔をしていた。

「それはこいつが卑怯者だからです」

<小説版『ゴジラ−1.0』/集英社>

話は若干逸れたが、それでは果たして本作は特攻を肯定しているのか、否定しているのか。まず大前提となるのが本作における敷島が命令された「戦争末期の特攻作戦」は日本が「もう勝てないよね」と降伏する段階に入っているにも関わらず、「いや、まだ負けてない!ここまで来たら最早一億総玉砕あるのみ!」という現代視点で見れば愚かなノリによって強行された作戦。ただこの時の日本には「負けるくらいなら、みんなで潔く死ぬべし」という価値観があり、「これ負けるな」と思った段階で部隊全員で集団自決する流れも強いられていたという。 そのためこの空気の中で「いや、自分は死にたくはないんで…」と生き残ろうとするのは正に「卑怯者」のすることであり、尚且つ仲間同士で「お国のために立派に死んで靖国で再会しよう」的な約束をした上で戦地に向かったりしているものだから、こうした背景の戦争を生き残ってしまうと「自分は生き残ってしまった、死に損ねた人間だ」と思い悩むのも無理はない。だから小説版の敷島は夢の中で共に出撃した特攻隊員と大戸島で見殺しにした仲間たちから「なぜまだ生きているのか?」「それはこいつが卑怯者だからです」と責められる夢を見て「自分もみんなと一緒に死ぬべきだった」「自分は生きててはいけない」と苦しんでいる訳だ。

 

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  • 「戦争末期の特攻」の呪縛からの解放

「笑えますね・・・・・・生きたいようです俺は。ハハ」

「あの日、死んだ奴らもそう思っていたよ。みんな生きて帰ってきたかった。そして願い叶わず虫けらみたいに殺されたんだ。あんたのせいで」

「わかっています」

「生きろ」

橘に掴まれた肩が熱かった。

敷島は橘がどれほどの気持ちでその一言を言ったのか考え、そして大戸島のみんなを考え、ただただ自分の膝元を見ていた。

<小説版『ゴジラ−1.0』/集英社>

こうした背景を踏まえるとおそらく少なくない数の人が違和感もしくは最大の盛り上がりを感じた秋津の「良い顔してやがるぜ、嬉しいんだよ、今度は役に立ってるってな」「俺たちは戦争を生き残っちまった、だから今度こそはってな」もその時に「役に立つですか…」と複雑そうに発した野田の「今度の戦いは死ぬためではなく未来を生きるための戦い」演説を合わせると、秋津の言った「役に立つ」は「先の戦争で生き残ってしまった自分たちがゴジラ討伐というお国のための戦いでようやく立派に死ねる」という意図だった可能性もあるのではないかと思う。ただそうした戦争の生き残りが「自分は生き残ってしまった」というトラウマを抱えているのは、野田の「この国は命を粗末にし過ぎた」「しまいには特攻だ玉砕だと」「今作戦は犠牲者0を誇りにしたい」という演説内容的に「死ぬことを誇りにした死ぬための戦いをしたから」であり、本作では「ゴジラ討伐という最高の死に場所」を「みんなで死ぬ」という先の戦争の思考ではなく「みんなで生き残る」という思考で戦い抜くことで「自分は生き残ってしまった、死に損ねた」というトラウマを乗り越えよう、という話なのだろう。そのため敷島が「お前のせいでみんなが死んだ」と責めてくる橘からの「生きろ」という言葉が出てきた気持ちを考え、脱出装置を使って「生き残る決意」をしたことで「自分は生き残ってはいけない、役目を果たして死ななければならない」という「戦争末期の特攻」の呪縛から解放された、ことを示すことで本作は「戦争末期の特攻作戦」を否定した作品であるとは言える。

 

※ただ敷島はそんなに特攻から逃げた件を悩んでいるように見えない(特に映画版だと夢の中で見るのは大戸島の仲間たちのみ)とか敷島が大戸島の件で主に思い悩んでいるのが「引き金を引けなかったこと」についてなことで特攻から逃げた件も「他の特攻仲間は死んだのに自分だけは生き残ってしまった」というよりはラストの展開も合わせて「特攻し損ねた」こと自体を悔いているように見える、とかの問題はある

 

 

  • 最後に…

そんなこんなで色々危うい感じはあるも「戦争末期の特攻肯定の作品」ではないのは明らかだと思うが、冒頭に戻って「最優秀脚本賞に相応しいのか?」と問われると選ばれた以上「そうなんじゃね」と思う反面、「脱出装置のことは観客にバレてない」という意図の脚本っぽいのに殆どの人にバレていたりと「どうなんでしょうね…」みたいな気持ちもある。まー、投票だからそうした意図はないだろうが、「脱出装置がバレバレなのは脚本ではなく最優秀監督賞を逃した監督(どっちも山崎貴)の責任」と言われればそうなのかもしれないが…

 

※「大戸島で引き金を引けなかった件」に被せる形で「敷島は脱出装置の引き金を引いて生きる選択を出来るか」をクライマックスにした方が良かったのではないか、感もある。今のラストだと「反戦映画」「生きて、抗え。」と言う割に「特攻から逃げて自分だけ生き残ってしまった」「大戸島でも自分だけ生き残ってしまった」「典子も失ってしまった」を乗り越えて辿り着く「生きて、抗え。」よりも「特攻する勇気がなかった」「引き金を引く勇気がなかった」「典子と結婚する勇気がなかった」を乗り越えて「ゴジラと戦うこと」の方に重点があるように見えて「生き残る」ことは二の次感がある。

 

【追記】戦争のトラウマがこれまで向き合われてこなかった背景に「日本軍人はそんな情けないことで悩まない」という空気感があったことやイラク戦争で派遣された自衛隊員が複数人自殺したことなどを踏まえると、今回の「ゴジラ討伐でトラウマを晴らす」はかなりの「荒治療」だな、とも思う。

 

【追記2】敷島の「自分の戦争が終わった」が「ゴジラに特攻することで終わった」なのか、橘の想いを通して「戦いで生き残ることを肯定的に終わった」なのか、が「戦争末期の特攻美化」のジャッジポイントだとは思う

 

 

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