山崎貴監督『ゴジラ−1.0』の現段階での私的総括。
- 賛否割れる『ゴジラ−1.0』
個人的な初鑑賞時のファーストインプレッションは「困ったな…」という苦笑いだった。面白くはあったが、求めていたものとは違ったし、それは置いといても何かが引っかかって素直に楽しめない、もしくは純粋に物足りない、みたいのを感じた。事前の宣伝では「敗戦直後の日本にゴジラが上陸してゼロからマイナスに落とされる絶望感溢れる映画」という触れ込みだったが、実際の作品は『ゴジラ・ザ・ライド』の印象に引っ張られてるのもあってか「遊園地のアトラクションみたいだったな」という印象の方が強く、後半の戦争の生き残りたちによるゴジラ討伐チームも割と無邪気で「なんか意外とノリの軽い映画だな」と思った。自分の後ろの席に座ってた知らないおじさんが1人で「つまらん、つまらん」とブツクサ言ってた(※1)のにも「まー、そう言う気持ちも分からないでもない」と思いながら、聞いていた。その一方で「ゴジラ熱線後のキノコ雲からの黒い雨」には心の底から名シーンだと思った。公開初日段階の世評も概ね好評な反面、大絶賛というムードではなかった。
※1 本作への「登場人物が自分の思っていることをベラベラ喋っていてリアリティがない!」みたい批判は「自分の後ろのおじさんも1人で感想呟いてたからな…」と思いながら見てた
- 様々な顔を持つ「ゴジラ」
「王道中の王道でありながら、『今作るなら、こういうゴジラだよね』というものにしたかった」。監督は「格好良さを意識した」とも話し、最終的に「(これまでの)ゴジラのイメージの集合体」のような仕上がりとなった。
この「遊園地のアトラクションみたいなフワッとした感じは何なんだろう」、そんなことを公開以降考えていたが、山崎貴監督のフィルモグラフィーを振り返ったことと本作で初めてゴジラを見た人の「アメリカの核実験でゴジラが巨大化したことが伝わってこなかった」という感想を聞いたことで、今回のゴジラが良く言えば山崎貴監督の「好きなゴジラ像」を全て詰め込んだ、悪く言えばヒーロー性を除く「ゴジラ像」をお約束的に並べた作品だから、なのではないかという一つの結論に達した。『ゴジラ』シリーズは今年で生誕70周年の歴史が長く、初代は「戦争や核のメタファー」である一方で、ある時は「自然災害」的なアプローチが取られ、ある時は「ヒーロー」として描かれ、またある時はただ単に倒すべきモンスターとして描かれ、またある時は『「GOD」ZILLA』とあるように「神」の側面が強調されるなど「様々な顔」を持っている。その上、今やみんなから愛される「国民的キャラクター」でもある。それ故にみんなの好きなゴジラ像もバラバラだ。そして今回の山崎貴監督のゴジラでは「戦争や核のメタファー」をベースにヒーロー性を除く「ゴジラ像」が全て詰め込まれた結果、かなり歪な作品に仕上がっているのではないかな、と感じた。
- 「ゴジラ」のお約束を詰め込むと…
例えば世間的に大好評な「銀座の破壊シーン」もメインテーマと共に「よっ!待ってました!」と言わんばかりにゴジラが登場して、「国民的キャラクター」としてのゴジラが観客を楽しませる方向のアトラクションに振り切った演出が施されている一方で、最後は「核のメタファー」としてのゴジラが「熱線からの爆風、モクモクと上がるキノコ雲に黒い雨」で締めることで、「国民的キャラクター」としてのゴジラと「核のメタファー」としてのゴジラが同時に描かれ、一つのシーンの中での演出の統一感がない。銀座のシーンは劇中的には「マイナス」のはずなのに、観客には「ゴジラの破壊シーンが楽しい!」という「プラス」の感情を与えているのもテーマと不一致で「絶望感」が薄い。本作への批判の一つである「戦争のメタファーのゴジラを一方的かつ理不尽な被害の側面だけが目立つ自然災害的に描くのはどうなのか問題」も山崎貴監督的には「ゴジラは戦争と核のメタファー」というお約束と「初代も劇中ではゴジラが日本を襲う理由は不明だったけど、メタ的にはゴジラは時代ごとに存在する不安や不穏を表す『祟り神』的存在、今回は製作途中でパンデミックとなったコロナ要素強め」(※2)というお約束をもとにした自説を「どっちも入れた」故のことなのだろう。それに加えて今回は「先の戦争の教訓を生かした戦い方をすることで、トラウマを克服する物語」にしたことで日本の被害の側面ばかりの描写に違和感が生じやすい構造になってしまっていた。
命の危険のあるゴジラ討伐に「良い顔してやがるぜ、オレたちは戦争を生き残っちまった、だから嬉しんだよ、今度こそ役に立てるってな」のノリで向かってしまう軽さも戦争や災害という重いテーマに「戦争の生き残りが新たな目標に向けて再び立ち上がる連帯感」という『海賊とよばれた男』の「戦後復興」ノリやスポ根のお約束、文化祭前日のワクワク感も持ち込んでしまったが故に生じたものだろう。また秋津の「役に立つ」発言を複雑そうに聞いていた野田に「今度の戦いは死ぬための戦いではなく、未来を生きるための戦いだ」と演説させるのも、敷島以外の戦争の生き残りたちが「死ぬための戦いの準備」をしているように見えないので、食い合わせも悪い。秋津の「今度こそ役に立つ」が「戦争で生き残った罪悪感の反動」なら生き生きとした表情で準備よりも自らの死に場所を求めるかのように覚悟を決めて黙々と準備している方が野田の演説による「先の戦争の特攻・玉砕精神からの解放」も強調出来て良かったのではないか。
終戦直後だからこそ「命をかける覚悟を決める」ではなく「命をかける覚悟は既に決まっている、寧ろ先の戦争の人命軽視の作戦のせいで自らの命を軽んじてしまっているからこそ、命の大切さを説く」という狙い自体は「なるほど」と思わされたが、そもそも論として「ゴジラ討伐という命懸けの作戦」というベタな熱い展開と「命を無駄にした先の戦争批判」というベタな戦争の教訓が上手く噛み合わせきってない状態(民間主導と言いつつ政府が用意した4隻の船で少数の人間が危険な現場に向かわされる、作戦失敗時の引き際を考えずに結局は「やれることは全部やるんだ!」と「死ぬまで戦う」の精神、命を大事にする海神作戦が事実上失敗しており、敷島の特攻がなければみんな死んでたetc)で出されている感もあった。これは「言ってることとやってることが違うのでは…」という批判を招いているコアな部分な気がするし、結局は「命懸けの作戦」の前に「命大事に」のお題目は有耶無耶にされていくんだな、感もあった。「敷島が特攻から逃げた件」と「大戸島で引き金を引けなかった件」を被せたのも「自分だけ生き残った」より「ちゃんと命懸けで戦えなかった」が強調されて、メッセージが混乱しているように思えた。散々「戦争に参加したいなど二度と言うな」「戦争に行ってないのは幸せなことなんだぞ」と怒られていた戦争に憧れのある軍国青年が最終的にゴジラ討伐への参加を肯定的に描かれるのも「反戦メッセージ」と「小僧が戦いに参加することで真の漢になる」という王道を描いたことで、前半の「反戦メッセージ」が「戦いを肯定するための前フリ」みたいな見え方をしてしまっている問題も生じた。後半が同じ展開でも今回のテーマなら中盤の海中戦で多くの人が目の前で死んでショックを受ける、みたいな戦争への憧れが砕かれる描写とかが必要だったのではないか(追記:山崎貴監督曰く当初は中盤の海中戦で死ぬ予定だったという)。
公開当時に賛否割れた沈みゆくゴジラへの「敬礼シーン」もノベライズ版や音声ガイドで山崎貴監督は「日本軍は健闘した相手に対して敬意を示す」と説明していたので、架空戦記的なお約束も盛り込んだということなのだろうが、劇中でゴジラは「日本を襲う倒すべき怪物」という存在(ゴジラ討伐に参加した殆どの戦争の生き残りが大戸島で日本兵が発砲してゴジラが暴れた<劇中の「敷島が引き金を引けずに仕留め損ねた」描写と異なり山崎貴監督的には他の日本兵が撃ったのが悪いと明言している>こともアメリカの原爆実験で被爆して巨大化したことも知らない=人間の加害者性、ゴジラの被害者性が希薄)であり、「ゴジラ=神」への強調は薄い(※3)ことから「なんで急に感傷的になっているの?」と感じた人やゴジラが戦争のメタファー故に「ゴジラ討伐で敗戦のコンプレックスを晴らして、敬礼で締めとは良い気なもんですね」と不快に思った人が少なくなかった要因だろう。
※2「アメリカの核実験で生まれた存在が、日本に上陸して日本の街を壊すって、そもそもおかしな話なんですよね(笑)/時代ごとに存在する不安や不穏なものが祟り神となって人々の前に現れて、みんなでそれを鎮めようとするのがゴジラ映画なのかもしれないなと思います」/出典:【ネタバレあり】「ゴジラ-1.0」神木隆之介×浜辺美波×山崎貴監督、ゴジラ愛あふれる本音トーク : 映画ニュース - 映画.com
※3 「(ゴジラは)神様と生物の両方を兼ね備えた存在」/出典:『ゴジラ−1.0』パンフレット
- 最後に…
そのため全体を通してみると結構チグハグな印象を受ける作品だし、「もうちょっと何とかならなかったのかな…」感も否めない作品だが、それ故に大半の人にとってどこかしらに「自分に見たいゴジラ」が存在するため、酷評派の人の中にも「でもこのシーンは素晴らしかった」と思える要素があるし、逆に絶賛派の人でも「このシーンはちょっと…」という奇妙な賛否の割れ方をする作品になっている。要は「自分の見たいゴジラ」がどの程度劇中で観れたかの割合でその人にとっての評価が決まるのだろう。つまり本作は色々な顔を持つ「ゴジラ」を題材に「ベタ」や「お約束」を詰め込みまくった結果、見方によってはいくらでも深読みできる反面、「お約束」を「見せ場」的に並べただけの「遊園地のアトラクション」的な「薄っぺらい映画」にも見える、それでいて「戦争」や「核」をメタファーにしているから「何も考えずに素直に楽しめるエンタメ」にもなっていない、作り手もそんなつもりでは作ってない「歪な作品」となっている。
- 関連記事