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広島の惨状を目の当たりにした主人公は「もし京都に3発目が使われるなら…」、日本の原子爆弾開発を描いた青春映画『太陽の子』

映画 太陽の子

クリストファー・ノーラン監督が「原爆の父」を描いた伝記映画『オッペンハイマー』の公開によってアメリカ映画の原爆描写に注目が集まっているが、日本でも今から4年前の2020年夏に日本海軍から依頼を受けて原子爆弾の開発をしていた京都大学の研究室を舞台にした若者たちの物語『太陽の子』が放送されていた。本作は元々映画公開を予定していたことから、テレビ放送されたバージョンは再編集版で、元の映画版は翌年の2021年に公開された。放送直前にメインキャストの1人である三浦春馬が亡くなったことで、「遺作」として注目を集めた作品でもある。

 

  • 京大の若き科学者たちが原爆開発へ

10年前、広島で仕事をしていたときに、広島県史という資料集が図書館のすみに眠っていた。めくったら、若い科学者の日記の残片があった。京都大学の原子物理学を勉強する若き研究者が残したもの。当時最先端だった原子物理学という学問にどう向き合うか。その一方で、今日どんなものを食べたとか、どんな人が好きかとか、日常の生活が何げない言葉で書かれていた。この若者たちの物語を形にしたいと思い立ち、そこから十数年かかった。

柳楽優弥が原爆開発の研究者に 戦後75年、感じた恐怖 [核といのちを考える]:朝日新聞デジタル

日本で「原爆」と「戦争」というキーワードから思い浮かぶのは「日本は原爆を落とされた被害国」であり、「アメリカは原爆を落とした加害国」であるという事実だ。一方で日本でも原爆の開発はしていた。ただアメリカは国家プロジェクトとして原爆を開発していたのに対して、日本は海軍と陸軍がそれぞれ極秘で研究を進める一体感のなさやそもそもの予算やウランの量の大幅な違いから、先の戦争での実用化は現実的ではなく「話にならない」レベルだったという。しかしそうした圧倒的な差こそあれど、「これを完成させれば戦争を終わらせることができる、世界を変えられる」と希望を信じて未知なる発見をするために実験に没頭する姿は共通している。しかも『太陽の子』の舞台となっている京都帝国大学の科学者たちは現役の学生たち故に研究に楽しさを覚える反面「自分たちはとんでもない兵器を作っているのではないか」という恐怖だけでなく「文系の学生は戦地で戦っている中で、我々はここにいていいのか」などの葛藤も抱えており、「未来ある若者たちの青春の1シーンの影にも常に戦争が潜んでいる」という作品になっている。

 

池上彰の 映画で世界がわかる!(第38回)『映画 太陽の子』―“日本の原発開発”の裏にある若者たちの葛藤 - ぴあ映画

 

以下ネタバレ注意

 

 

  • 米が広島に投下、目の当たりにする現場の惨状

研究において「先を越される」ことほど悔しいことはないだろうが、原爆開発の研究において「先を越される」というのはあまりにも悲惨な結果とセットだった。本作では終盤に差し掛かると史実通りアメリカによって広島に原爆が投下される。『オッペンハイマー』ではラジオ越しで投下事実を知ったオッペンハイマーが自身の想像力からその被害の悲惨さを幻視することでショックを受けて深い後悔の念にかられるが、日本の京大の研究チームは広島に向かい惨劇の現場をその目で直視することで自分たちが開発していたものの恐ろしさに気付く。ただそこで若き彼らが原爆の被害状況へのショックだけでなく、科学者として開発競争に負けたという悔しさも同時に露わにして、感情の整理がついてない様子を描いているのも良かった。

 

 

  • 京都に原爆投下の噂、科学者の狂気

黒崎 そうですね。元々京都に3発目が落とされる噂は実際にあったみたいです。なので町の多くの人がそのことを知っていたと思います。あと、これはどこまで探っても事実かはわからないですが、荒勝文策という教授がチームのみんなに、京都に落とされるんだとしたら比叡山に登ってそれを観察しようじゃないかと発言したという記録があります。僕はこれをたとえフィクションだとしても、ぜひストーリーに取り込みたいと思いました。

『映画 太陽の子』で三浦春馬扮する息子を母親役の田中裕子はなぜ抱きしめずに耳を触ったのか(篠田博之) - エキスパート - Yahoo!ニュース

また本作では広島、長崎と立て続けに原爆が投下された後に、主人公は「京都に3発目の原爆が投下される噂」を聞きつけることで「比叡山に登って爆発の一部始終を観察したい」「未だかつて原子物理学者が目にしたことのない実験になる」という科学者としての狂気の面を見せる。これは真偽不明の「教授の発言の記録」を元ネタにしたシーンだというが、その考えを伝える主人公の柳楽優弥とそれに驚きつつも理解を示す教授役の國村隼の演技のやり取りが見事で「そういう発想になるんだ…」という怖さを感じつつも「いや、でも君たちならそうだよね…」と思わせる名シーンになっていたように思う。最終的に太陽の下で京都の風景を観察しながらおにぎりを食べることで、人間としての良心を取り戻していき、家族の元へ戻っていくのもベタだが悪くなかった。第二次世界大戦の原爆において日本は被害者になり、アメリカは加害者になった。そして当時の圧倒的な国力差を踏まえれば逆の立場になることはあり得なかったのだろう。ただ日本も研究はしていた。実在の人物と史実ベースとはいえ架空のキャラクターを比べるのもどうかと思うが、戦争に限らず世の中「結果的にやらなかった、やれなかっただけ」ということは山ほどあり、本作の主人公は若く、結果的に「開発できなかった」側の人間だったからこそ、家族の元へ帰っていけたのかな、と思えた。

 

 

  • 最後に…

エンディング手前で主人公はアインシュタインに「あなたはこんな結末を予想しましたか?」と問いかけると「もちろんだ」と返答され、「私には止められない これは結末ではない 科学の進歩の一過程なのだ 原子核のレベルまで突き詰めた時 破壊は美しい 君もその魅力に取り憑かれた」と説かれる。主人公は「これは違う」と否定するが、アインシュタインは「いや 同じことだ 何も変わらない」と応じ、主人公が「ではこれが必然だと?」と更に問うと「イエス 科学は人間を超えて行く それは誰にも止められない これまでもそうだったし これからもそうだ」と結論付ける。実際のアインシュタインはナチスによる核爆弾開発を計画する手紙を米大統領に送ったことを後悔してたらしいが、宮崎駿監督の『風立ちぬ』や山崎貴監督の『アルキメデスの大戦』を観た時も思ったが、魅力に取り憑かれることほど怖いモノはないし、才能ある人間が取り憑かれたら最悪国一つ滅ぼしかねないというのは恐ろしいモノだな、とも感じた。

 

 

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