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「作り手の意図を超えた映像の真実と虚構と暴力性」、スティーブン・スピルバーグ監督の自伝的映画『フェイブルマンズ』ネタバレ感想

フェイブルマンズ 映画チラシ 監督:スピルバーグミシェルウィリアムズポールダノ 2023年3月 洋画 フライヤー

スティーブン・スピルバーグ監督最新作『フェイブルマンズ』を観た。

 

  • スピルバーグ監督の「自伝的映画」

本作はスピルバーグ監督の「自伝的映画」。「自伝映画」ではなく「自伝『的』映画」であり、例えば本作の冒頭で『地上最大のショウ』を主人公は両親に挟まれて観ていたが、実際は父親と2人での鑑賞で母親はいなかったという。そのためどこまでが本当なのかは不明で、ある程度本人の理想や虚構等も含まれていると推測される。本作はスピルバーグの両親が亡くなったことに加えて、コロナ禍に突入して「1年後もどうなってるか分からないし、今撮るか」的な感じで製作を決めたと『キネマ旬報』の2月下旬号に書いてあった。そして『ミュンヘン』の脚本家にセラピー的に自らの子供時代を話して、共に脚本を執筆したのだという。やはり人は一定の年齢に達すると自らの人生を振り返りパッケージしたくなるものなのか。一観客としてはとてもありがたいので、子供時代に列車のオモチャが爆破する様子をカメラに収めようとしたマイケル・ベイ監督など他の監督もガンガン作っていって欲しい。

 

以下ネタバレ

 

 

  • 「作り手の意図を超えた真実と虚構」

そんな本作、予告編や宣伝を観るとスピルバーグの過去作品の匂いを漂わせながら、スピルバーグが映画監督になるまでを描く爽やかな青春サクセスストーリーみたいにも思えるが、実際はカメラで映像を撮ることによって起こる「作り手の意図を超えた真実と虚構」を映すある種の「暴力性」が一つのテーマとなっている。「作り手の意図を超えた真実を撮ってしまった」ケースは主人公が青年期に家族でのキャンプの様子を撮影した結果、母親の不倫現場を押さえてしまったエピソード。主人公がフィルムを回すことで本人の中で確信に迫っていく様子は目が離せない辛さがあった。おそらくカメラを買い与えた母親も自らの息子によって撮影された映像を観て、映像の持つ恐ろしさに背筋が凍ったことだろう。

 

※「『未知との遭遇』のお父さんはスピルバーグのお父さんの投影ではなく芸術肌のお母さんの方だったんだな〜」という指摘には「確かに」

 

 

  • 本人の意図とは異なる当事者からのジャッジ

一方で「作り手の意図を超えた虚構を撮ってしまった」ケースは主人公が高校卒業時のプロムで流した映画で、自身をユダヤ人だからという理由でイジメていた相手をカッコよく撮ってしまったエピソード。撮られた側はビーチでの陸上での勝利は自身の努力の賜物という認識だったが、映像からはその努力は感じ取れず、悠々と走り抜ける映像での自分に本人は怒りは覚えていた。母親の不倫現場を上手くカットして繋げた主人公にとって嘘の塊でしかないフィルムを当事者から「私自身そのもの」と高く評価され、逆に主人公としてはカッコいい彼をありのままに撮って編集したフィルムが当事者から「あんなのは自分ではない」と貶されたという本人の意図とは異なるジャッジを当事者から喰らうことで「映像の暴力性」を自覚する2つの正反対のエピソード。今のスピルバーグが自身の自伝的映画を作る際に「描きたい」と思ったのはこの部分なんだな、と興味深く観た。

 

 

  • 最後に…

いじめっ子との「泣いたこと言うなよ」「分かったよ」みたいな会話は「いやいや、映画にしちゃってるじゃん」的な笑いがあったし、その直後の「現実は映画とは違う」的な台詞はこのやり取りのグレーさを強調するユーモアがあったように思う。最後に自身を酷く虐めていた奴と卒業式のひと時だけは他の誰よりもお互いを分かりあえた、みたいな「ザ・陰キャの妄想」という感じで色々思うところもあった。ラストのカメラの動きを敢えて観客に意識させるほど動かして地平線を移動させる演出も良かった。

 

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