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【ネタバレ感想】「まだ戦争は終わってない」と「この国は命を粗末にしすぎてきました」、山崎貴監督『ゴジラ−1.0』と「戦争」

【映画パンフレット】 ゴジラ-1.0 GODZILLA -1.0 監督:山崎貴 出演:神木隆之介、浜辺美波、山田裕貴、青木崇高、吉岡秀隆、安藤サクラ、佐々木蔵之介 マイナス ONE

山崎貴監督『ゴジラ−1.0』と戦争の話。

 

本作の神木隆之介演じる主人公・敷島は特攻兵でありながら「機体が故障した」と嘘をついて特攻を免れる。当時を生きる日本人からすれば安藤サクラ演じる澄子のように「この恥知らずが!」と罵る人も多いのだろうが、今の日本を生きる観客視点では「間違った選択ではないよ」と寧ろ肯定的に見る人が大半だろう。そして劇中でも現代の観客の視点を代弁するかのように「どうせ負ける戦争、上の命令で無駄死にすることはない」と敷島の判断は擁護される。一方で大戸島に現れた呉爾羅を敷島が撃てなかった件はどうだろうか。もちろん緊迫状態の中、恐怖に負けて呉爾羅を撃てなかった敷島の気持ちに寄り添う観客は少なくないだろうし、この手の物語の場合撃つことで逆に事態が悪化することもあるので、必ずしも撃てなかったことが「悪い」という見方をされる訳ではないだろうが、「いや、そこは撃てよ!」と思った観客も一定数いたはずだ。少なくとも敷島が特攻から逃げたことを非難しなかった青木崇高演じる橘は敷島が呉爾羅を撃てなかったことに対して「みんな死んだんだぞ!お前が撃たなかったからだ!」と明確な怒りをぶつける。

 

 

こうした経緯から敷島は戦後「特攻から逃げた件」と「呉爾羅を撃てなかった件」をトラウマとして抱えることになる。ただ劇中の流れを踏まえると「特攻から逃げた件」は「軍からの不合理な命令による無駄死を回避した間違ってない選択」として描かれているのに対して、「呉爾羅を撃てなかった件」は「仲間の命を救えなかった後悔の選択」という描かれ方になっている。要はこの2つのトラウマの本質は異なっている。しかし敷島はこの2つを同じ戦争のトラウマとして認識しており、整理がついていない。そのためゴジラによって浜辺美波演じる典子を失った敷島は「特攻から逃げたトラウマ」と「呉爾羅を撃てなかったトラウマ」の2つを同時に解消させるために、ゴジラに対して自らの命を賭けて戦うという心理に至ってしまう。

 

 

ただそれは劇中でも指摘されている通り「自暴自棄」に陥っているに過ぎない。敷島は劇中で何度も「自分の中で戦争はまだ終わっていない」と繰り返す。そしてその言葉を戦時中に特攻の手助けをしていて罪悪感があったであろう橘にも向ける。ただ特攻の件に関しては吉岡秀隆演じる野田が「この国は命を粗末にしすぎてきました」と演説していたように、(山崎貴監督『アルキメデスの大戦』のラストで批判していたように軍だけでなくそれに煽られ止まらなくなった新聞や国民も共犯であることを前提に)本質的には「国」が悪い。そのため敷島と橘はあの命を粗末にした戦争を自分たちの中で終わらせるために「脱出装置」を付けた、つまりは「これから先の未来を生きるため」に戦いに向かったのだ。だからラストで典子から「あなたの中で戦争は終わりましたか?」と問われた際に死ぬことではなく生きることを前提にした戦いをしてきた敷島は「終わらせた」と明言することが出来たのだ。

 

 

そのため本作は「敗戦した日本人があの戦争を連想させる戦いに再び挑み勝利する物語」の系譜であるともいえるが、本作の場合「国の命令で自らの命を賭けた戦い」を「自分たちの判断で自らの命も大事にする戦い」として「やり直す」ことで自分たちの中で「戦争を終わらせる物語」となっている。しかし典子の首筋に広がる黒い痣とゴジラが復活の予兆を見せているラストからは彼らの中で戦争を終わらせたつもりでも、実際は終わっていない、これからもまだまだ戦争の恐怖が続くことを暗示している。

 

 

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