スポンサーリンク

「戦時中の価値観に染まる子供」と「ラストの母親の幻視」、大泉洋が戦時中にタイムスリップするクドカン『終りに見た街』感想

ネタバレ注意

山田太一の原作小説を宮藤官九郎脚本でドラマ化した『終りに見た街』を観た。

 

  • 大泉洋演じる売れない脚本家が戦時中に…

本作では大泉洋演じる売れない脚本家(とは言っても、テレ朝の刑事ドラマの穴埋めやスペシャルドラマを任されるくらいの実力アリ)が、家族と一緒に家ごと戦時中にタイムスリップしてしまう物語。クドカン脚本らしく「ポツンと一軒家かよ!」と小ネタを挟みながらコミカルに物語が進んでいくが、この先を生き抜くために令和の家族は戦時中に適応せざるを得なくなっていく。そんな中、主人公は「自分たちはこれから東京大空襲があることは分かっているのだから、この事実を伝えて少しでも被害を抑える方向に動いた方がいいのでは」と思い至り、同時期に戦時中にタイムスリップしてきた堤真一演じる脱サラしたエキストラ俳優と共に奔走する。一方で主人公とエキストラ俳優の子供たちは「自分たちが戦時中にタイムスリップしてきたのは、この負け戦を勝利に導くためだ」という結論に至り、日本人が「一億総玉砕」と一致団結してお国のために死にに行っている中で「この戦争は間違ってる」「どうせ負ける」とネガティヴな主張を繰り返す親たちに対して「みんなが頑張ってるのに、どうして戦争で死んで行った仲間たちを否定するようなことを言うのか」と反発する。

 

 

  • 世の中への不満と戦時中の価値観の心地よさ

大泉洋はこの展開に対して「子どもたちが戦争に感化されていくときの親の衝撃。そこが今回の作品の肝です」「世の中への不満と戦争が結びついていく怖さがありますね」との見解を示している。本作では「日本のために死ぬことは立派だ」という戦時中の価値観に感化された令和の若者は「理屈を捏ねる者はブン殴られる、多様性なんてクソ喰らえ、気持ち良いです」と主張した。今年放送のクドカン脚本のドラマ『不適切にもほどがある!』は賛否が大きく割れた作品だったが、そこで描かれた「コンプラに縛られた令和の息苦しさ」が「軍国主義」によって解放される展開には怖さを感じた。何故なら「多様な生き方を肯定される世の中で何をしていいのか分からず宙ぶらりんになって生き甲斐を失っている若者たち」が「目的意識を持ってみんなと同じ方向に頑張る心地よさ」は「戦争の是非」を超えて共感されるものだからだ。そしてこの「心地よさ」は最早「若者」に限定されるものではなく、SNSで己の正義を信じて暴走して、現実世界でハレーションを起こしている大人たちにも当てはまるだろうし、今の時代はSNSで起きたことが簡単に国同士の争いに発展する危険性も孕んでいる。そのため「戦時中に感化される側の人間の現実社会への居心地の悪さ」にも寄り添う形で戦争の恐ろしさを描いて「厭戦」を訴える脚本は見事だったように思う。

 

 

  • 戦争経験者を親に持つ世代が伝える教訓

また本作ではラストの核兵器が落とされた202X年の焼け野原の日本で、主人公が若き日の母親が去っていく姿を幻視する。主人公は戦争経験者の母親がいるにも関わらず、脚本家として戦争を題材にした作品を執筆したことはなく、終戦80周年記念のスペシャルドラマのオファーを受けた際も渋っていた。そのためラストの母親のシーンは「戦争を経験した世代がどんどんいなくなっている」ことのメタファーで、主人公は親から戦争の悲惨さを直接聞けた世代にも関わらず、自分たちより下の世代にその教訓を伝えきれなかったがために「再び同じ悲劇を繰り返してしまった」ことを暗示したかったのではないかと思った。そしてそれは本作の放送発表の際に「クドカンが戦争ドラマなんて珍しいね」と指摘(一応NHK大河ドラマ『いだてん』とかでやってるけどね…)されたクドカンによる自省や自戒もあったのかもしれない。劇中でも「戦時中に脚本家が何の役に立つの?」と疑問視するセリフがあったが、これも「戦時中にならないように自分たち脚本家らがエンタメの力で食い止めるのが役目だ」と主張しているようだった。

 

 

  • 最後に…

高畑勲監督「攻め込まれてひどい目に遭った経験をいくら伝えても、これからの戦争を止める力にはなりにくいのではないか。/為政者が次なる戦争を始める時は『そういう目に遭わないために戦争をするのだ』と言うに決まっているからです。自衛のための戦争だ、と。惨禍を繰り返したくないという切実な思いを利用し、感情に訴えかけてくる。」

時代の正体〈47〉過ち繰り返さぬために | 社会, 時代の正体 | カナロコ by 神奈川新聞

本作では冒頭にテレビ局のプロデューサーによって「戦争ドラマは数字が取れない」「だからラブストーリーとかにするしかない」みたいたことが語られる。これは「大泉洋が戦時中にタイムスリップするクドカン脚本のコメディ」として宣伝されていた本作への自虐とも取れるが、「去年の特攻隊は酷かった」というセリフからどうしても昨年公開の女子高生が戦時中にタイムスリップして特攻隊員に恋をする映画『あの花が咲く丘で、君とまた出会えたら。』(流石に茶髪とかではない)を思い出してしまう。勿論『あの花〜』は「戦争は好きな人と一緒に過ごすという当たり前の願いすら叶わない悲しいこと」として「反戦」を訴える映画ではあったが、「日本の平和を願った特攻兵の想い」に寄り添うことで、戦争や特攻を美談としてコーティングしてしまう危うさを孕んだ作品にも思えた。これは本作にもゲスト出演していた神木隆之介主演『ゴジラ−1.0』(ゴジラ討伐を通して戦争を生き残ってしまった罪悪感を乗り越える)も同様かもしれない。その意味では今回の作品はラストの核兵器投下の焼け野原など「戦争の悲惨さ」をストレートに訴える作品ではあったが、これはこれで高畑勲監督の指摘するところの「為政者による自衛戦争の口実に使われるタイプ」としての危うさはあるように思う。現にSNSでは「こういうことにならないように日本もちゃんと備えなきゃ」という趣旨の感想は複数見た(当然、備えることも大事なのだが…)し、この描き方だと、そういう思考になるのも無理はないのかな、とも感じた。作品自体は「令和の家族も戦時中にタイムスリップすればその時代に適応せざるを得なくなり、戦時中の価値観に染まる恐れがあり、それは今の時代に起きてもおかしくない…」と警告する内容ではあったと思うが…

 

  • オマケ

テレビプロデューサーがシェルターから生配信しているのは格差の広がる社会で戦争が始まったら、優雅に生き残る人と無惨に死んでいく人に明確に分かれる、ということを伝えたかったのだろう

 

 

  • 関連記事

mjwr9620.hatenablog.jp

mjwr9620.hatenablog.jp